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教師に求められるエンパシーの能力

英語科教育法IV『外国語学習者エンゲージメント』の第4章前半。

どこまで包括できるか

本章の1つ目の原則は「手本を示して集団を導く」である。
その手本の見せ方の一つに「誰をも排除せず、あらゆる人を受け入れる包括性(inclusivity)」を示すことが挙げられている。
著者はこう続ける。

それは、すべての学習者にプラスの面を見出すことを意味する。たとえ見出すことが容易でない学習者に対しても努力するのである。そうすれば、なにかと反発するような学習者にも創造性や独創性が見えることがある。

pp. 111-112

これに対してある学生は少し具体的な場面を想定して問いを投げかけた。

例えばやる気がなく、反発する生徒がいたとする。その生徒のせいでグループワークが進まない。教師はどうするべきか。ほっておくわけにもいかないけど、その生徒が周りの足をひっぱることになるならあきらめるのもアリなのか。努力するとは具体的にどんなこと?

学生の事前コメント

これに対して別の学生は「持っているクラスサイズにも依るかもしれない」とした。つまり、あまりに人数が多いと物理的に諦めざるを得ないかもしれないと考えたわけである。
学生時代には「(俺の考える)理想の英語教育」を考え・語ることに精一杯だった私からしたら、教育実習にも行っていない段階でこんな現実的なことをちゃんと想定して答えられる学生には脱帽だ(が、一方で「学生の間ぐらいもっと理想を語っちゃいなよ」とも思わないでもない)。
これに関しては英語教育に限らず日本の学校教育の問題としてずっと言われているクラスサイズの問題であり、彼の見立ては正しいと言わざるを得ないだろう。だからこそ、多くの先生方や学校教育に関わる研究者がクラスサイズの縮小の必要性を主張するわけである。

別の学生は、そもそも授業のグループワークに取り組めない生徒があまりに多いとすれば、それは授業の側にきっと問題があるだろうという見解を示した。この視点もとても大切にしてほしいものだ。
(大学にいるとそれをより顕著に感じるが)授業に参加(エンゲージ)できない学習者がいる時に、それをその学習者本人の力不足やモチベーションの欠如の問題としてしか捉えない先生は一定数いる。教師のストレスを一時的に吐き出す方法としては簡単だが、その姿勢でいる間は授業は一生かかっても本質的な部分で改善されていかないだろう。

尚、このディスカッションの延長だったか、どこかしらのタイミングで「グループワーク」の進め方の議論になった。
「全ての学習者に役割を与える」というのが何度か話題に上がっていたのだが、この「役割」という言葉からイメージされやすいのは「分業」のグループワークかもしれない。つまり、あまり英語が得意じゃない子もグループワークに参加(したことに)できるように、全体の抱えるタスクの簡単なごく一部をやらせてみるという考え方である。実際、私の勤める大学でも(低習熟度学生への配慮という意図の有無は分からないが)分業型のグループワークが行われている授業が結構多そうだ。(研究室にグループワークで与えられた仕事を持ち込んでくる学生たちを見ていると、よく分かる。同じ班の他のメンバーが具体的にどんなことをしているか、誰も知らないし、知る必要もない)

対して、我々の読んでいる「外国語学習者エンゲージメント」で想定されているのは(恐らく)「協働」型のグループワークである。グループで一つのタスクの(より良質な状態での)達成を目指しており、そのために必要な役割がそれぞれのメンバーに1つ以上当たるというイメージである。
そもそも英語の授業でグループで課題解決などの協働型グループワークに取り組むというのが我々にはほとんど経験もなく想像しづらいところではあるが、教室をリアルなコミュニケーションの場とすることを考えるならば、「役割」とは何のために与えるものなのかを「協働」の視点から考えたい。

「共感」というスキル

原則3は「学習者間のTEAを高める」だ。
TEAとはTrust(信頼)、Empathy(共感)、Acceptance(受容)のことだ。
この中で「共感」は、元々のEmpathyという単語の意味するところと日本語母語話者の理解がズレやすい言葉だ。

事前コメントでも「共感」についての疑問が挙げられていたので、ひとまずブレディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』を簡単に紹介して、以下のようなことを伝えた。

エンパシー(「共感」という訳語に問題があるので使用を避ける)とは、他人と同じ気持ちになったり「分かる、分かる」と相手に理解を示したりするということではなく、他人の視点に立って、その人なりの物事の捉え方を再現しようとすることであり、その能力である。

(尚、『他者の靴を履く』ではここでいう「エンパシー」を「コグニティブ・エンパシー」と呼んで、その他のエンパシーの定義との棲み分けをしている)

エンパシーは能力(スキル)であると考えれば、それは誰でも伸ばすことができる。「共感できる人だよね」「共感力が高いよね」という性格・人柄に閉じ込めたものにはするべきではない。
なぜなら、エンパシーは視点を意識的に切り替え、他者の認識や感情をさまざまな背景と照らし合わせながら論理的に考えることだからだ。

これは単に「客観的に物事を見る」こととも違う。もちろん「私ならこうする/考える/感じる」と自分の主観に従って言っているだけならそれはエンパシーでも何でもないが、かと言って神の視点で客観的に事象を捉えるのもエンパシーではない。
繰り返しになるが、立つべき「視点」は神ではなく他者である。そしてそこではその他者が持つであろう「主観」も考慮に入れなければいけない。

そういうことができると、上で見た「どこまで包括できるか」という問いへの答え方も変わってくるかもしれない。少なくとも、やる気のない学習者の「自己責任」で片付けることはなくなるだろう。

エンパシーと価値判断

上で『他者の靴を履く』に触れたので、もう少しそれについて書きたい。もうここからは英語教育のことは何も関係ないし、実際英語科教育法の授業でもあまり伝えきれなかったことでもある。

ある学生は、凶悪犯罪者でも共感できてしまうという旨の発言をしてくれた。それ自体は上で述べた(コグニティブ・)エンパシーの能力があるということとして良いことだと私は思う。
しかし、そこから「だから、『〇〇は悪いことだ』と言えない」という風になってしまうと、それは問題だ。詳しくは『他者の靴を履く』を読んでもらいたいが、善悪の価値判断の主体としての自分を失うことは、あらゆる社会的な理不尽を受け入れることに繋がる。そういう個人が増えれば、権力者の独裁を許す可能性にも繋がる。
つまり、善悪の判断の主体になれないことは市民(citizen)としての生き方の問題である。

加えて、教師という職に就く者が善悪の判断の主体になれないとすると、それは教師という存在でいることを否定し得るほどの根源的な問題になると私は考えている。
教師の仕事は、未来を担う若者たちを育てることだ。そこには個に寄り添った教育の瞬間もあれば、社会全体の発展・維持・変容を見据えての教育の瞬間もあるだろう。いずれにせよ、「こういう人に育ってほしい」とか「こういう社会にはしてはいけない」とか、そういう「願い」があって初めて人を育てるという使命を背負うことができるはずだ。

善悪の判断の主体になれない人間には、それが出来ない。
これは善悪のブレない判断基準を持っていなければいけないという意味ではない。何が善で何が悪か、より善な状態とはどのような状態か、そういうことを考える主体である必要が教師にはあるということだ。

エンパシー、つまり他者の視点に立ち、その人の思いを想像・理解することは「将来君が人を無差別に殺す人になったとしても、それは君がそういうことがしたいと思ったんだし、君がやりたいことなんだら、僕はそれで全然いいと思うよ」などという姿勢を持つこととは別なのである。

考えるべきは「なぜ彼は無差別に人を殺したいだなんて思うんだろう。彼がそういう風になる背景には何があるんだろう。教師として、それをどう違う方向に向かわせられるだろう」といったことである。

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