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「うちはうち,よそはよそ」 - 学びの個別最適化って?

子どもの頃「テストの点良かったらケータイ買って。〇〇(仲良しの友人)とか△△(そんな仲良くないけど名前だけ利用)はもう買ってもらっとる」とか言うと,お母さんに「うちはうち,よそはよそ」と言われましたよね。

そしていざテストが終わると「××ちゃん(親同士が仲良し)はこの前のテスト,全教科90点超えたらしいよ。あんたももっと頑張らんとね」と。

反抗期だったかわむら少年は当然「うちはうち,よそはよそやろ。関係ないやん」と自室に引きこもって,ひたすらウイニングイレブン(KONAMIのサッカーゲーム。楽しい。)をやり込みます。

当時の僕の反論,そんなに的外れではなかったと思うんです。勝手に他人と比べられて「あの子に追いつけるように」「あの子を見習って」なんて言われたって,その子のことを異性として好きか,人として憎んでいるかしない限り勉強の動機になんてならないでしょう。多分。

自分には自分の,他人には他人の,「ペース」「モチベーター」「認知能力」「得手不得手」etc そういうものがあると思うわけです。

というわけで,今日は「学びの個別化」というテーマで少し書いてみたいと思います。

学びの個別化

個別学習 (Personalized Learning)とは,

要は,一人ひとりの生徒特有のニーズに合わせた学習 (Horn & Staker, 2015, 小松訳, 2017, pp. 15-16)

今多くの学校では,生徒が登校できず,授業だけでなく課題の配信・提出や事務的な連絡もオンラインでするしかない状況にあります。そんな中で,一部の学校支援系のアプリにはそういった「連絡ツール」だけでなく,プロの講師による「学習動画」を配信するサービスもあります。

そういったシステムを利用すると,生徒の模試やwebテスト等の結果に応じて「君の苦手はここだね!この授業を見てみよう☆」「君は去年の内容まで戻ってゆっくり頑張ろうね♪」「君はすごいねぇ!2学年飛び級だよ!!」なんて感じで,一人ひとりの生徒に対して,「最適」な学習コンテンツを出してくれるのです。

でも,「学びの個別化」ってそういうこと(だけ)なんでしょうか?

自分が中2の生徒に対して出したGWの宿題を例に「学びの個別化」について考えていきたいと思います。

GW課題

僕の勤務校では4月下旬に早めにGWに入って,5月6日まで12連休でした。御多分に洩れず大型連休には各教科から宿題が出されます。

僕の出した宿題は,
①英語によるプレゼン or スピーチ or レポート or 動画作成
②単語学習(オリジナルのワークをPDFで配布)
の2つです。②については今日はノータッチ。

①は「休校中の自律的な生活・自分磨き」か「休校中の発見」のどちらかのテーマで,上記いずれかの形態で発表してもらうものです。他にも良いテーマを思い付いた場合はそれでもOKとしています。

課題の目的

この課題はテーマも上述の通り比較的広く設定され,発表形式も多岐に渡ります。ざっくり言ってしまえば,「自由度が高い」課題になります。
また,多くの生徒は,プレゼンにしてもスピーチにしてもレポートにしても,その「型」のようなものを恐らく教えられてはいません

こんな乱暴な言い方をすれば怒られるかもしれませんが,「評価基準」は特にありませんし,プレゼンでもレポートでも動画でも構わないという時点でフォーカスを当てている「技能」すらありません。

このような課題を出した目的の一つに,英語を使って自由に何かを産出する場合,それぞれの生徒がどのような種類の物を作り上げてくるのかに興味があったということが挙げられます。(生徒には「発表形式の主体的な選択」をできるようになってほしい)
ちなみに「動画作成」は最初から選択肢にあったわけではなく,「動画を撮影・編集して出してもいいですか?」という生徒が出てきたため,後から追加したものです。生徒がその発表形式を望むのなら,基本的にはそれを受け入れることが大事になるような課題でした。

また,もう1つ大きな動機があります。何も制限されない状態でどのような英文・英語表現を産出できるのかを見て,それを彼らの英語学習の現在地を知る手掛かりにしたかったのです。
英作文を書かせても,(まだ) "I think ... . I have two reasons. First, ... ." とは書かないだろうと期待を込めての課題でした。

まとめると「産出的側面について,生徒の英語力・英語学習の現在地と,一人一人の特性を知りたい」という感じです。

(これもあくまでも教員側の受け取るメリット(?)の話で,生徒には「考えたことを振り返り,言葉にする」「自分自身を客観視する」といった能力を伸ばすことを期待しています)

提出された課題から垣間見えた生徒の英語力

生徒から提出された成果物は多種多様です。
・スライドを作って画面録画しながら声を吹き込んだプレゼン動画。
・原稿を見ずに,止まりながら,思い出しながらのスピーチ動画。
・A4一枚という厳しい努力目標に辿り着くべく,単文箇条書きのレポート。
・高い編集技術を駆使した,ちょいちょい英語字幕の現れる動画。
などなど。

一つ一つの内容に関しては僕の楽しみとして留めておくとして,これらの成果物から,直接教室で授業をできていない生徒らの英語学習の現在地を知る手がかりが得られると思うのです。
(生徒の力を把握する上で,教室で机間巡視・机間指導できる「当たり前」の大切さを痛感しています)

例えば,プレゼンを作った生徒の中にも,「スライドに書いた単文を(抑揚なく)読み上げる生徒」「スライドとは別に用意した原稿を(抑揚なく)読み上げる生徒」も沢山いる一方,「複文を含む長めの原稿を用意し,プレゼンの場面転換さえも英語を話すトーンによって表現できる生徒」もいました。

休校中のある1日の行動をひたすら箇条書きしてレポート(?)を提出した生徒も,Zoomで質問対応した際に「『6時半に起きました』って過去形ですか?毎日なんですけど。」と,めちゃめちゃ鋭い質問をしてきました。(しかも早起きで偉い)
とりあえず,「毎日とか頻繁にすることを書きたかったら現在形で,昨日のことだけ書きたかったら過去形だよ〜」みたいな感じで教えると,「毎日してることだけじゃ1枚埋まらないから昨日したことにしよ」と昨日したことを一つ一つ声に出しながらZoomの向こう側で英語を書いていました。(かわいい)

ハイクオリティな動画を送ってくれた生徒に関しては,英語は動画を彩るエフェクトの一つに過ぎないという面もあり,その英語使用量から英語力を察することは少し難しそうでした。
しかし,フォントや文字色・文字サイズ,言葉が動画の質に関わる部分に関してはとことんこだわれるでしょう。字幕も今後はよりバラエティ豊かな語彙や文でカッコ良さを増したり,伝えたいイメージをできるだけ正確に伝えたりできるようになるかもしれません。そして何より,それだけの制作能力をもってして,今後もずっと日本語話者だけに向けて動画を配信するのでは本当に勿体無い。彼への英語指導ではハイクオリティな動画制作への関連付けを意識することが重要だろうと考えられます。

全ての生徒について深入りした分析は時間・体力的に難しいとしても,一人一人にフィードバックを返す過程で,「あ,この子はこのタイミングで過去形と現在形の使い方を教えてあげればきちんと理解できそうだな」とか「この子には編集技術の高い英語の動画を見て勉強することを勧めてみようかな」とか色々考えられます。

もっと一般的な例を挙げると,プレゼンやレポートが単文の羅列に終始している生徒らには「情報が繋がっている部分を"and"や"but"を用いて重文にしたり,因果関係のある部分を"because"を用いて複文にしたりということから頑張ってもらおう」というように,今のレベルの一つ・二つ上の目星をつけることが出来ます。

このような,いわゆる「形成的評価」や「アセスメント」と呼ばれるタイプの「評価」を通して初めて,「学びの個別化」が実現されるのではないでしょうか。

そして僕のGW課題の成果物に関する上記の報告を受けて,ここまで読んでくださった先生方なら連休明けにどのような授業・指導をするでしょうか?

コンピュータで振り分けられた「学習動画」を一人一人別々の空間で見ているだけの学習をイメージしたでしょうか。

おわりに

僕は「学びの個別化」という考え方自体は嫌いではありません。

大学に行けば当たり前のようにそれぞれの学生が自分の学びたいこと・学ぶ必要のあることを見つけて,それぞれのやり方・ペースで学んでいます。

しかし,なぜかその直前の高校生というカテゴリーまでは,(時には志望学部の大雑把な分類で括られた)複数の生徒らが同じことを同じように学ぶことを求められていることが目立つと思います。

「均質」「平等」の中でただ縦軸方向に生徒を伸ばそうとする教育で,本当の「学びの個別化」は実現されるのでしょうか。

参考文献

ホーン, B, M.・ステイカー, H. (著), 小松健司 (訳) (2017) 『ブレンディッド・ラーニングの衝撃 「個別カリキュラム×生徒主導×達成度基準」を実現したアメリカの教育革命』

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