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#芸術としてのサッカー論
【対談:後編】 『サッカーにおける"抽象的思考"の重要性』 河内一馬×三倉克也
2019年1月上旬、『新サッカー論 サッカーとアートのカオスな関係』の著者である三倉克也さんと、私河内一馬が対談を行いました。『サッカーは「芸術」であり「表現」である』という2人の共通認識のもと、私はサッカーの専門家として、三倉さんは芸術分野の専門家として、様々な角度からサッカーを議論しています。
今回は【後編】です。ぜひお楽しみ下さい。
前編▼
—対談者プロフィール—
河内一馬(@ka_
【対談:前編】『果たしてサッカーは"芸術"であり"表現"なのか?』 河内一馬×三倉克也
2019年1月上旬、『新サッカー論 サッカーとアートのカオスな関係』の著者である三倉克也さんと、私河内一馬が対談を行いました。『サッカーは「芸術」であり「表現」である』という2人の共通認識のもと、私はサッカーの専門家として、三倉さんは芸術分野の専門家として、様々な角度からサッカーを議論しています。
ぜひ、お楽しみ下さい。
—対談者プロフィール—
河内一馬(@ka_zumakawauchi)
『言い訳』 日本人はなぜW杯で勝てないのか
では、言い訳を始めます。
——よく「練習しないほうがうまくプレーできる」と言いますよね?練習しなくてもいいチームプレーは、プレーそのものが自然だし、そもそも自分たちに合っているんです。逆に練習しなければならないチームプレーは、プレーがチームに向いていないんです。それに気づいてからは、練習しなくても成立しそうなプレーを考えるようになっていきました。
ダルビッシュ有(カブス)がこんなことを話してい
なぜ彼らは異常なまでに「見た目」に気を配るのか——。“弱い”と“ダサい”は比例する
人は本を表紙で判断する。最高の製品、最高の品質、非常に有益なソフトウェアなどを備えていたとしても、見せ方がいい加減であれば、いい加減なものにしか見えない。創造的で洗練された見せ方をすれば、望ましい特性を持たせることが出来る——。
▼Vol.3
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冒頭の文章は「本の売り方」について書かれた書籍から引用したものではなく、ニュージーランド代表ラグビー集団「オールブラックス」について書かれた著『
なぜ 「会いに行けるサッカー選手」 はダメなのか? エンタメの副作用と錯覚
「会いに行けるアイドル」として、秋元康プロデュースによる「AKB48」がエンターテイメントの一時代を築き、多くの社会現象を巻き起こした。
では「会いに行けるサッカー選手」というコンセプトはどうだろうか?
かつて「雲の上の存在」であったアイドルをファンに近づけることで成功を収めたAKB48のように、サッカー選手、及びスポーツ選手を「遠い存在」ではなく、「ファンと近い存在(身近な存在)」にしていく
Jリーグが必ずハマる"罠"——。 スポンサーの獲得は「正義」か「悪」か
Apple StoreでMacbookを購入し、家に帰って箱を開ける。端末のデザイン、機能性、ロゴ、どれをとってもシンプルで、洗練されたデザインが美しい。それを象徴するように、箱の作りもシンプルで、複雑な部品や、分厚い説明書は入っていない——。
Vol.2▼
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■もしもAppleが…あなたはApple製品の『機能』や、スティーブ・ジョブズの『哲学』が素晴らしいと感じている。でも…もしApp
強いからかっこいいのか、かっこいいから強いのか——。 "弱い"と"ダサい"の因果関係
※この記事内で使用する「かっこいい」や「クール」、「ダサい」または「センス」などの表現は、全て私の美的感覚に依存し、数字上には表れないものである。よって、私が「かっこいい」と表現するものが、一部には「ダサい」と映る可能性があり、文章で扱うには極めて相性が悪いテーマであるということを前提に読み進めていただきたい。
そしてこの記事が「センスのある人間が勝つ世界」を書いたものであるということも——。
一神教を信仰しないことがサッカーに与える影響
【宗教/言語編】 外国人を日本に招くことがサッカー界の発展に繋がらないと断言できる「8」の根拠※ 私はこの記事の中で、また『芸術としてのサッカー論』の中で、日本人の文化的特徴がサッカーという競技(勝ち負けのあるサッカー)にどうマイナスの影響を与えているか、また日本サッカーに関わる人々がいかにそれを曖昧にしているのか、について触れることが多くなります。芸術と文化は切っても切れない存在ですので、「芸術
もっとみるもしも自動車運転免許がS級ライセンスだったら
プロサッカー監督における"運転免許証"である「S級ライセンス」が機能しているか否かを検証するために、自動車運転免許を比較対象としました。2つの「運転免許」の共通点や相違点を元に検証をすると、S級ライセンスの問題点が浮き彫りになり、それらが日本サッカーの発展を妨げる原因になってしまっていることが明らかになります。
■S級ライセンス『日本にナーゲルスマンが居ない理由』では、日本のS級ライセンスには「
なぜサッカーにおいて「科学(サイエンス)」が正義になるのか Prologue.5
では、なぜこんなにもサッカーを「サイエンス」で語ることが正義とされてきているのでしょうか?その答えは一つです。
例えば監督が何かを決断するとします。その時のアートと、サイエンスはこうなります。
アート:「直感的にそう感じたから。なんとなく、あの選手を出せば間違いないと思った」
サイエンス:「過去のデータに基づくと、この選手は後半80分から出場させた時がもっとも得点につながるプレー(その定義は
サイエンスで勝とうとすればサイエンスだけで敗れる Prologue.4
サッカーというスポーツは、そもそも全てを「サイエンス」で説明できるのでしょうか?この『芸術としてのサッカー論』ではそこを追求していきます。
私はこのままだと、日本がサッカーをますます「陳腐なもの」にしてしまい兼ねないと危機感を持っています。それを防ぐには、2つのことを理解する必要があります。
1.サッカーとは「芸術(アート)」である
2.「科学(サイエンス)」はそれを補足するものである
ア
"WEB先行型"日本サッカー Prologue.3
■日本サッカーが踏んでいく段階さて、ここからは今日本サッカーがどのようなフェーズに入っているのか、そしてまたここからどのような段階を踏んでいくのかを書いていきたいと思います。
現状の日本サッカーの一言で表すと「WEB先行型サッカー」、そしてまた「WEB完結型サッカー」と言えます。
つまり、サッカーのサイエンスを語るのは、現場ではなく欧米の情報に敏感な「WEB上の人間」が先であり(WEB先行型サ
ボールを使うことに固執するチームが結果を出せなくなる理由 Prologue.2
■欧米サッカーが踏んでいく段階これまでのサッカー界の流れをみると、日本人は欧米の表面上をコピーし続けることが予想されます。ということは、理論上これからの欧米サッカーの流れが予想できれば、日本サッカーの流れも予想が出来るということです。
世界のサッカーは前述したように、これからより深くサイエンス化が進んでいきます。そうなると、(サイエンス化という観点から見た場合)サッカーはどうなってしまうのでしょ
「サイエンス化」とは全ての国が同じ到達点に向かっている状態を指す Prologue.1
「サッカーを言語化する」
現在日本サッカー界で、頻繁に聞かれるようになったフレーズです。欧米諸国における現代サッカーでは、各国それぞれの方法論で、サッカーにおけるあらゆるプレーが「言語化」されており、これはスペインやオランダを中心に「常識」と捉えられている印象を受けます。
極端にいえば「360度何をしても良い」という極めて自由度の高い中で"共同作業"をするサッカーというスポーツにおいて、一つ一