【連載小説】稟議は匝る 8-1 室蘭 2006年11月14日
8-1 室蘭 2006年11月14日
ここに来ると、地球は本当に丸いんだなぁと誰もが素朴な感想を持つだろう。
そう思いながら、山本は束の間、窓の外を眺めた。
小高い丘の上から、広い海の地平線がどこまでも続いており、気のせいではなく、その地平線は、緩やかな弧を描いている。山本からすれば、この壮大なパノラマは、一見の価値ありだが、観光客を呼ぶための立派な展望台や、土産物店など、商売っ気のあるものは何もなく、ただ広いコンクリートで覆われた大地と、崖沿いに鉄製の手すりがあるだけだ。
ここは、室蘭の地球岬。
かれこれ、1時間以上はこのあたりをレンタカーで行ったり来たりをしている山本は、もう半分あきらめた気持ちで、この地球岬を眺めていた。
北海道の地方に行けば、カーナビは役に立たないと思った方が良い。
「道なりに10kmです」という他の地域ではほとんど聞かないようなアナウンスをひたすら繰り返したかと思うと、目的地付近に到着したので案内を終了しますと勝手にナビをやめてしまう。
それもそのはず、北海道の所在地は特定されていないエリアが多いのだ。建築許可を取らずに勝手に建物を建設し、不動産の保存登記も行わない。地図上は建物がごまんとある。郵便局はどうやって配達しているんだろうと不思議になるが、そこに住んでいる人にとっては、地図や登記簿上の表記など、どうでもいいことなんだろう。
その日、山本は、早朝から、北海道各地をレンタカーで走り回っていた今日一日、山本は保証人の取り立て日にあてていた。取り立てといえば、聞こえは悪いが、公庫受託資金の事務委託によるものだ。
かつて国策公庫は、総裁の方針により、農林水産業向け融資に対してイケイケドンドンな時期があった。農林水産業への支援を貸出残高の増加により示していた。バブル絶頂期である。
その際、公庫が考案した仕組みが受託資金である。今でいう協調融資に近い感じかもしれない。
一般の金融機関が、農林水産業者に資金対応する際に、公庫がその全額を肩代わりし、金利も借り手が払う金利に上乗せして、金融機関に還元するというものだ。
受託資金と呼ばれたこの資金は、金融機関からすれば、全く資金を用意せず、かつ普通貸出よりも金利収入が多いというので、金融機関側は積極的に活用した。
その際にある種の合成の誤謬が起きる。
金融機関側は、自分の貸出金なので、貸出金勘定に計上する。しかし、公庫も、受託資金を実質的に貸し手に融資しているとの理屈から、自らも貸出金勘定に計上された。そのため、この制度が多用されている時期は、農林水産業向け融資がダブルカウントされていたことになる。
その後、それはあまりだという統計学者からの指摘により、一般貸出金、公庫受託貸出金は分けて表記されるようになったが、本質はあまり変わっていない。分析する気もなえるグダグダの統計だ。
その一見、ウインウインの関係にみられるこの資金も、次第に金融機関にとってのデメリットが表面化してくる。
貸倒れ時の特約だ。
全額公庫からの資金供与であるが、貸倒れ時には、貸倒額の20%を金融機関が負担し、その債権回収事務は受託金融機関が行うという特約条項だ。冷静に考えれば、自分で貸し込んだ債権が貸し倒れれば、全額不良債権であるが、公庫受託資金ならば20%で済むのだから、割は良いはずであるが、それは審査を通常どおり行っていればの話である。
あまり深い検証をしなくとも、人の金だから審査もかなり緩かったのは想像に難くない。なにせ、資金の出し手の公庫が積極営業だから、イケイケドンドンの掛け声までも聞こえてきそうな稟議の説明事項だ。
バブルがはじけ、公庫受託資金の大半が不良債権になった現在も、国策公庫は、法的手続きをとってまで回収する気はない。取り立ての厳しさから、社会問題になることを恐れるあまり、一生懸命取り立てる気もないが、かといって債権放棄する気もなく、当債権は回収中と言うためだけに時効の中断を定期的に行っている。
それも債権の確認訴訟などといった法的なものではなく、一部返済による債務承認である。つまり、定期的に債務者のところに行っては、払える金額を払ってくださいとお願いし、3000円、5000円と、ちびちび回収しているのだ。
回収事務コストの方が圧倒的に高いが、公庫受託資金の特約なので、受託金融機関は仕方なくやり続けている。当然、形式的でも報告書があれば、用は済む問題で、公庫側も、金融機関側も、誰も真剣にやっていない。自然、忙しい合間のやっつけ仕事になってしまう。
時効の中断は5年だが、農林銀行の内部規定は、2年に1度の割合で行うことになっている。
山本には、10先の連帯保証人が割り振られており、それらを廻って歩かなければいけない。農林銀行はおしなべて3年に1度の転勤だから、運が悪ければ2回やるものがいる一方、運が良くて、忘れてましたと平気でうそぶける人間は、1度もやらずに転勤するものもいる。
いずれにしても、まじめに引継ぎがあるわけでもなく、大きなドッチファイルを車に積んで、あてにならないカーナビだけをたよりに連帯保証人を尋ねるスタイルとなる。
山本は、金融庁が本店検査にはいるタイミングで、この連帯保証人周りの予定を入れた。
「もうラーメンでも食って帰るかなぁ。」
誰に言うでもなく山本が独り言を言った。その時、不意に山本の目に丘の上の邸宅が映った。
陽光を反射した窓がやけにきらめいて見える。何の情報もないが、山本のアンテナに引っかかった。どうしても気になった山本は、なんとなくの方向感覚で、山道を登り始めた。カーナビはハナから役に立たない。
昇り始めた山道は悪路だった。ところどころ大きくえぐられたような穴が開いている、舗装どころか、砂利も敷かれていない本当の山道を、山本は意地になってレンタカーを走らせた。分かれ道もなく、ただひたすら道なりに、15分。
山の草木は、車道にも構わず伸びきっており、がさがさと、おそらく車体にこまごまとした傷がついていそうな嫌な音がしているが、山本は、この先を見るまでは引くに引けないと引き返すことは考えていなかった。