僕とフジファブリック(前編)

衝撃的なニュースが届いた。

僕の人生において音楽というものは多大な影響を与えてくれたのだが、
その中でもフジファブリックは特に大きな影響を受けたバンドだった。

シンプルにショックだった。
思春期の時に比べるとライブにもなかなか足を運ばなくなってきてしまった僕でも30代になっても足を運んでいるバンドだし、何よりファンクラブにも入会している。
今でも大好きなバンドだ。
そのバンドが、活動休止。

「僕たちは絶対に解散しないバンド」

よくメンバーが口にしていたその言葉が心強かった。
だから、永遠に続くものだと思っていた。
しかし、解散ではないものの、活動休止へ。
頭の中が追いつかなかった。
しかも今年はメジャーデビュー20周年。
色々とアニバーサリーなライブも発表されている中でのこの発表。

自ずとフジファブリックと自分について考えてしまった。

音楽にハマったのが2004年。
厳密に言えばその前から音楽は好きだった。
ただ、2004年の夏の失恋をきっかけに音楽にハマり、色々なアーティストを聴くようになった。
そのために利用したメディアがスペースシャワーTVだった。
そのスペースシャワーTVを見ている中で流れた音楽がフジファブリックの「赤黄色の金木犀」だった。

こんなにも心が揺さぶられる曲があるなんて!!
今の若者の中の流行語である「エモい」みたいなものか。
日本情緒溢れる切なさに一気に僕の心はつかまされた。
「こんなに美しいロックを奏でるバンドがいるのか」と。
この曲が好きすぎで、ギターを買うときにボトルネックも買ったのを記憶している。
結局使うことはなかったけど。

先ほど述べた「エモい」という言葉はいまいち言語化しづらい単語だと感じている。
特に今流行っている「エモい」についてはレトロ感だったり、そういうことも示しているらしい。
僕がティーンだった時にもエモい、という言葉は存在していたが、それは感情直結型のような歌が多かった気がする。
代表的なところで言えば、アジカンだ。
そうしたゼロ年代エモーショナル≒感情直結という中で知った「赤黄色の金木犀」は僕個人にとって相当衝撃的だった。

のだが、その後にリリースされた曲が奇妙奇天烈だった。
「TAIFU」だ。

あれ?
これ、赤黄色の金木犀を歌っていたバンドか?!
違った衝撃を受けた。
そして、その後リリースされたのが「銀河」だ。

訳がわからない。
分からなすぎる。
なんだこれ。
ただ、めっちゃ中毒性がある。
とんでもない曲を生み出したなぁ、と率直に感じた。
一度この中毒性にハマってしまったが最後、抜け出せなくなっていった。
そしてこの曲、ひいてはフジファブリックの影響を受けたバンドが現在も多々いる。
その1組がフレデリック(フジファブリックの対バンツアーにも参加したし、コラボソングもリリース)なのだが、彼らの代表曲である「オドループ」を初めて聞いた時はまさに「銀河じゃん」と思った。
しかもMVの監督、銀河と同じスミスさんだし。

そんな衝撃的な曲との出会いがあり、2005年。
僕も高校1年生になっていた。
2004年に音楽へと本格的にハマる前から、スネオヘアーやくるり、といった音楽を聴いていたこともあり、ギターへの憧れも強く、高校進学と共にギターも買ってもらった。

そんな中でリリースされたのが「虹」だ。
すごく爽やかでもあり、エモさも感じられる一曲でとても好きな曲だ。

そしてインディーズ時代の名曲「茜色の夕日」もリリース。
これこそ、日本人が昔から持つ夕暮れに対するエモーショナルを素晴らしく描いている名曲。
イントロのオルガンが本当に良い曲。

その後、ライブツアーが始まる。
TOUR RAINBOW OF SUMMER 2005
これがフジファブリックとしては初のワンマンツアーとなった。
このライブツアーには是非とも行きたい、と強く願った。
そして、それは実現することになる。
ただ、一個問題が生じた。
今思えば真面目すぎるだろ、と思うのだが、当時はまだ1人でライブハウスへ行くことがなかった。
母親と一緒にアジカンやスネオへアーのライブに行っていたものだ。
今思えば母親とライブ行くってすごいな。しかも息子世代の音楽を。
母親の感性の良さは今でも尊敬している。

さて、フジファブリックのライブをどうするか、と話していた時、
自衛隊員だった祖父が「俺がついて行こうか」とビックリ仰天なことを話し出した。
流石に僕も母も「いやいやいや!!!!」と、必死で止めた。
結局、僕一人でライブに行くことになった。
今思えば、クラブに行くわけじゃあるまいし、しかもフジファブリックという実に健全なバンドのライブなのだから危ないことなんてありゃしないのだが。
まぁ、高1生と言えども、親は心配か。

なので、僕のソロライブデビューはフジファブリックだ。
場所は札幌コロニー。
コロナ禍で閉店を余儀なくされた札幌の老舗ライブハウスだ。

2005年7月2日。
僕は緊張感と興奮を混ぜた感情を携えてコロニーへ足を運んだ。
そして、ライブは始まった。
当時のセットリストを見返してみると、一曲目は「虹」だった。
いきなり大好きな曲から始まった。
あの高揚感溢れるイントロ、すごく良いなぁ。
初の一人ライブの緊張感も一気に吹き飛んだ。
あぁ、大好きなバンドが今、目の前で歌っている。
最高だ。

2曲目の「TAIFU」でさらに会場が盛り上がった。
中毒性がありつつぶち上げてくれる最高の曲だ。

インディーズ時代の名曲「花屋の娘」の後に、大好きな「赤黄色の金木犀」が始まった。
ようやく生で聴くことができた。
やっぱりすごく良い曲だなぁ。
サビ後の間奏が特に好きです。
盛り上がっていく楽器隊のサウンド。
そして志村さんのメロディ。
エモさが爆発して、オーラスで楽器隊が落ち着き、最後にまたドッと盛り上がる。
今でも完璧な曲だと思う。

この日はかなり盛り上がり、あまりの熱気に金澤さんの機材が壊れる、というハプニングがあったのを覚えています。
それぐらい盛り上がったなぁ。
僕のソロ参加、実に良かった。
銀河もやったし、当時は新曲ということでタイトルが決まっていなかった「唇のソレ」も披露されていた。
ほんと、これはすごい曲だな、と。山内さんのギター、すげぇ、と思った。

実に良いライブだったのだが、その後、ライブへ行くことがなかった。
何か予定が入ってしまった、とかそういうことで行けなかったのだと思うけど、
僕にとって、志村さんの歌声を生で聴けたのはこの時だけだった。
なので「若者のすべて」も志村さんの歌声で生では聴いたことがない。
今思うと、もっとライブに行くべきだった、と思うのだが、それでも「赤黄色の金木犀」を生で聴けただけでも貴重だった、と強く思っている。

フジファブリックの快進撃は続く。
Surfer Kingやパッションフルーツ、といったキテレツ系なノリノリのロックをリリース。

そして、言わずもがなの名曲「若者のすべて」がリリースされた。

記憶が正しければ、当時、録音して聴いていたバナナマンのバナナムーン(まだ金曜日放送でなく、月曜1時間時代。懐かしい!!)で流れていたのを初めて聴いた気がする。
これ書いていて思い出したのだが、その放送後のPodcast(昔はiTunesでTBSラジオがオリジナルコンテンツで配信していた)の中で、放送本番と同じく、曲紹介することがあり、「フジファブリックで若者のすべて」と話していたのを思い出した。
なんで、こういうすっごい細かいことに関する記憶力だけは良いのだ、俺は。。

「赤黄色の金木犀」や「茜色の夕日」に似た、情景描写が美しいという感想を持ちつつも、これらとはちょっと一線を超えたような感じがした。
すごい曲を生み出したなぁ、としみじみに感じた。
そして、2024年現在もすごく愛される1曲になっているのは感慨深い。
ただ、当時はまだそこまで世間での認知はされていなく、もどかしい気持ちを抱いていた。
こんなに良い曲なのに、と唇を噛み締めていた。

その後リリースされた3rdアルバム「TEENAGER」は傑作だ。
アルバムとしてとても良くできていて、何度も聴いていた。
「星降る夜になったら」も名曲。
この時のライブツアーに行けば良かった。

個人的に好き度が高い「Sugar!!」がリリースされたのが2009年。
僕が大学進学を機に上京した年だ。
地元では僕の好きな音楽が好きな同世代というのがあまりいなかったが、
大学に進学すると、好きな音楽が被っている人たちにたくさん出会い、
とても嬉しい気持ちになったのを覚えている
結果として、バンドサークルにも入ってバンドもできた。

「Sugar!!」は実に爽快な一曲だ。
父親が日ハム戦を見る時にJ SPORTSの野球中継で流れているこの曲を聴いていて、フジファブリックを知ってくれた。

アルバム「CHRONICLE」に関して、バンドの進化を感じつつも、当時はフジファブリックの持つ変態性みたいなものが薄らいだかな?と思っていた。
当時大学1年生だった僕はその時代に出始めていたバンドや音楽も聴くようになり、少しフジファブリックへの熱量が冷めていった。
色々な音楽を聴くようになったことで一点集中型に近かった熱量が分散されていった感じだ。
しかも、東京。魅力が多い。

そんな中、衝撃が走る。
志村さんの訃報。
2009年のクリスマス。
言葉を失った。
バンドの解散や自然消滅、メンバーの脱退、ということはこの時も体験している(フジファブリックもデビュー時のメンバーだったドラムの足立さんが脱退)が、このような形は初めてだった。
家族と離れ、初めて東京で過ごすクリスマスはとても寂しい思い出になってしまった。
そうか、もう、志村さんの歌声も聴けないし、新曲も生まれないのか。
ほぼ全ての作詞作曲をしていたメインコンポーザーであり、かつボーカルを失ったフジファブリックはそのまま無くなってしまうのだろう。
そう、覚悟をしていた。

翌年、残っていた志村さんの楽曲をもとにリリースされた「MUSIC」はフジファブリックらしい変態チックな要素を併せ持った、素敵なアルバムだった。
ドラマ「モテキ」の主題歌にもなった「夜明けのBEAT」はすごくワクワクさせられた。
間奏のギターソロは圧巻!!

志村さんが残していった曲を完成させる。
そういう想いでリリースされた少し特殊なアルバム。
ただ、バンドらしさが凝縮されたアルバムだった。
志村さんがいない世界で聴く「Bye Bye」は陽気なメロディー故に泣けてくる。

フジファブリックがメジャーデビューしたのが2004年。
そして志村さんが亡くなったのが2009年の終わり。
約5年間において、少し熱量が下がってしまった時もあったが、
それでも僕にとっては核を成すバンドだった。
だからこその喪失感もえげつなかった。

今後、フジファブリックはどうなっていくのだろうか。

と、今回の活動休止発表を受けて思い出を書いていたらすでに結構な分量になってきたので、続きはまた来週。

昔ほど音楽は聴かなくなってきているかもしれないけども、今こうして振り返ってみると音楽はやっぱり大好きだし、僕のコアだなぁ、と。
特に高校〜大学1年の当時を振り返ってみたけど、紆余曲折ありながらも、なんだかんだで悪くはない青春時代だったなぁ、と。
イケテないグループに属していたのは事実だけど。
あの時の僕はなんだかんだで、エモかったんだなぁ。

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