見出し画像

団塊ジュニア世代が見てきた東京メンズファッション30年史⑨

2008

リーマンショックとファストファッション

この年に一気に表面化したリーマンショックを機に、日本経済全体の低迷が決定的となっていった。デジタル化に遅れ、旧態然とした大手製造業が相変わらずあぐらをかき、中国や韓国に追い越されそうになっていたことを誰も自覚したくないように見えた。雑誌業界も大手が相変わらず強く、再販制度の見直しもされることなく、部数減を補う広告出向やタイアップありきの誌面作りに頼るようになっていた。ファッション小売業もECへの移行が遅れ、その後ZOZO一強時代を許すことに。さらに前述した、超富裕層向けのセレクトショップのセリュックスと2001年に銀座でオープンしたリステア東京も相次いでこの年にクローズした。
 
経済で世界に遅れをとるようになった日本で、大きく注目されたのがファストファッションだった。すでに先陣を切っていた「ZARA」(スペイン)に加え、「H&M」(スウェーデン)が日本に本格上陸。コム・デ・ギャルソンとのコラボアイテムの発売を目玉にしたH&M銀座店のオープニングイベントは、熱心なファッショニスタまで巻き込んで大きな話題を呼んだ。すでにカール・ラガーフェルドとのコラボで成功を納めていたH&Mだが、この後も人気デザイナーやブランドとのコラボを定期的に投入して、現在まで確固たる地位を得ているのは周知の通り。一方のZARAは日本初上陸時の1998年からしばらくは特に大きな話題とならなかったが、2003年の銀座店オープン時あたりから、都会で働く女性や主婦層に幅広く受け入れられ始めた。女性誌ではプチプライス=プチプラ特集が何度も組まれ、女性たちの必須ブランドとして定着していく。海外ブランドや国内大手アパレルの広告出稿やタイアップに依存していたため、ファストファッションには消極的だったメンズ誌でさえその人気に押され、誌面で取り上げざるを得ないようになっていた。背に腹は代えられずということだ。
 
海外のファストファッションブランドを迎え撃つかのように、「ユニクロ」が再び大きな注目を集めるきっかけになったのがフリースだった。安価なのに暖かくて、シンプルでどんなスタイルにも合わせやすいと一大キャンペーンを展開。当時私が在籍していたモノ・マガジンでも、誌面で大きく取り上げていたことが記憶にある。作業服が出自のユニクロはどうも垢抜けない印象があり、安かろう悪かろうというイメージが拭えなかったが、佐藤可士和によるブランドロゴや、建築家の片山正通による店舗デザイン、親しみやすいPR戦略も功を奏し、ファッションに興味のないおじさんやシニア層まで巻き込んでフリースが大ヒット。続け様に破格のカシミアニットが投入され、ファッション層までもが無視することができない存在となり、文字通り国民的ブランドへと成長していく。以後もH&Mの手法を真似て、ジル・サンダーやクリストフ・ルメールといったデザイナーを招聘したコラボで、懐具合が寂しくなりつつあったファッショニスタにも欠かせないブランドとなる。

モードの帝王イヴ・サンローラン逝去

ハイファッション界でのビッグニュースは、イヴ・サンローランの死去だった。1999年にはすでにケリング・グループにブランドを売却して、その後デザイナーも引退して世間の目からは遠ざかっていたが、この訃報は世界的なニュースとして報じられた。60〜70年代にかけて世界のファッションを牽引し、プレタポルテと呼ばれる既製服の分野を拡張させた彼の業績は計り知れない。80年代以降のライセンスビジネスでは、ブランドの権威を失墜させてしまったが、90年代を通じて行われたリブランディングが成果を収めたことも、死の淵にあったムッシュに安堵をもたらしたであろう。2001年からイヴ・サンローランのクリエイティブ・ディレクターを勤めていたのは、グッチを再興させたトム・フォードだったが、サンローラン本人はトムの才能を認めず、快く思っていなかったそうだ。2004年にトムがイヴ・サンローランを退任するまで二人の間には確執があった。過去には袖なしのタキシードドレスのデザインを巡って、サンローランがラルフ・ローレンを相手取って裁判(1994年)を起こしていたことを含めて考えると、フランス人とアメリカ人のデザイナーでは、ファッションに対する精神性に大きな違いがあることを痛感させられる。

大人のストリートファッションとは?

私が編集に当たっていたセンスをはじめ、男性ファッション誌が盛んに“大人”という言葉を持ち出すようになっていったのもこの頃。20代前半に裏原ムーブメントを、20代後半にディオール・オム旋風を通過した新しい30代=大人が、メンズファッションの中心層に移行したことを意味していた。IT系企業などで力を付けて自由な服装を求める団塊ジュニア世代たちは、もはや『ゲイナー』『メンズクラブ』『MEN’S EX』といった雑誌に代表される、スーツを主軸とするコンサバファッションを求めていなかった。
 
『センス』や『メンズジョーカー』に加え、創刊したばかりの『グラインド』などの後発ストリート誌が提案していたのは、エディの流れを汲んだ全身タイトシルエットに、アメカジテイストを加えるスタイルだった。ジーンズは当然スキニーで足元はゴツいブーツ、アウターはレザーかミリタリーが好まれた。そこへウォレットチェーンやスタッズベルトなどのワイルドな小物を加えるのが定石で、それまでストリートファッションではあまり用いられていなかった、フェルトハットが取り入れられたことも特筆すべき点だろう。
 
一方で、長年スニーカーやジーンズを取り上げてきたストリート誌の代表格である『ブーン』が休刊。マニアックなまでに年代やカラバリに執着し、使用価値よりも交換価値としてのファッションアイテムの面白さを訴求して支持を集めてきたが、中途半端にファッションに寄った誌面となり、往時の魅力が霞んでいたのは事実だ。ナイキをはじめ並行輸入品への扱いは一層厳しくなり、誌面で掲載することがご法度になったことも大きな要因だ。いずれにせよ、一時代を築き上げた人気雑誌が無くなることは、その後に来る雑誌不況を予感させる出来事となった。
 
不良っぽくて男臭いスタイルが人気を博した一方で、頭角を現すようになった東京ブランドが「グリーン(green現:HYKE)」で、ミニマルかつクリーンな世界観がファッション関係者の間でブレイク。特に目立ったデザインやディテールがあるわけではなく、既存のアイテムをカッティングと素材使いで新しいアイテムへと昇華させるこの手法は、エディにも近いものを感じさせたが、彼らは特定のカルチャーや年代を想起させることを周到に避けていた。それゆえ、どこにもカテゴライズされることなく、当時は珍しかったユニセックスでの提案を他に先駆けて行うことにも成功した。また、ニットを得意とするウィメンズブランドとして1999年にスタートしていた「サカイ(Sacai)」がメンズコレクションを展開し、目の早いファッション関係者から注目を集めた。翌年の09年には世界的なダウンウェアブランドの「モンクレール」とのコラボを発表し、存在感を高めていく。

ギャル男、お兄系、オラオラ系

ディオール・オムが最もイケてるブランドという認識が一般層にまで広まると、勘違いしたフォロワーが増え出したのもこの頃。そのルーツとなったのは2000年代初頭に、渋谷の顔黒(ガングロ)ギャルのパートナーだった“ギャル男”だ。愛読誌は『メンズ・エッグ』で、木村拓哉を真似た茶髪のウルフカット、ネルシャツと色落ちしたジーンズを着用するのが定番スタイルで、愛車はヤマハのオフロードバイクTWだった。そうしたギャル男の一部が、ディオール・オムもしくは恵比寿連合系を模したようなブランドに目をつけたのが“お兄系”だ。ギャル男とお兄系の大きな違いはラグジュアリーブランドの有無であり、ヘアスタイルや小物選びにヴィジュアル系バンドの要素が加わることだった。彼らが目に付けたブランドがディオール・オムで、パリ発のモードなロックスタイルが日本独自のヤンキー文化と不思議な融合を果たした。
 
実際にディオール・オムを身に着けていたのは少数派で、当時大量発生したディオール・オムを模倣したブランドが人気となっていた。お兄系の代表的存在である歌舞伎町のホストは新宿のセレクトショップ、カワノで買い物するのが定番となった。私が在籍していたセンス編集部に、新宿カワノからのタイアップのオファーがあったが、お兄系雑誌と混同される危険があるので断る以外に選択肢がなかった。全身黒でロックなスタイリングを掲げていたセンスでは、お兄系に間違われそうな一歩手前でとどまり、外人モデルの起用と大物フォトグラファーの力を借りて、どうにかファッションとして成立させていた。ラグジュアリーブランドへ積極的にアプローチしながら、誌面のクオリティを高めるべく奔走していた。
 
2006年に渋谷109に出店したお兄系ブランド「ヴァンキッシュ」(2004年)が、一部で話題となったのもこの頃。同ブランドのデザイナーであり社長の石川涼が藤原ヒロシに接近し、後に「デニム バイ ヴァンキッシュ&フラグメント」というコラボを実現させる。お兄系ブランドのカリスマ創業者とストリートのカリスマという、全く接点のなさそうな二人の交友がブログなどで報じられると多くの人は首を傾げた。しかし、後になって二人のインタビューなどを読み返してみると、偏見や先入観なく面白そうなことには積極的にアプローチする藤原と、お兄系ブランドをファッションビジネスとして成功させた理論家の石川には、意外にもファッションに関して多くの共通理解があったことが分かる。
 
その後のお兄系は、ヤンキー漫画『クローズ』の要素を加えた“オラオラ系”へと変化していった。当時、ジャニーズ系と人気を二分しつつあったエグザイル系をお手本にしたかのようなマッチョさと不良っぽさをアピールしたこのスタイルは、その後のアスレジャーに接近して現在まで続くことになる。誤解なきように付け加えておくと、ジャニーズやエグザイルを批判している訳ではなく、売れっ子アイドルやアーティストはいつも世間からは誤解されがちだし、トレンドセッターとして負の面も背負うことになるのは致し方がないということだ。こうしたヤンキーにおけるファッション変遷を見ても、トレンドは定期的に陳腐化する。この現象はディオール・オムに限ったことではなく、バブル期のアルマーニやヴェルサーチ、現在のバレンシアガにおいても同様だ。

2009

独走中のナンバーナインが突如解散

民主党から出馬したバラク・オバマが、黒人初のアメリカ第44代大統領に就任。9.11から続いてきた共和党主導による対中東戦争とリーマンショックによって傷ついていたアメリカの再興に期待が高まった。日本でも長らく続いた自公政権に代わって、民主党政権が誕生。実体を伴わない新自由主義とデジタル化でグローバリズムが加速した世界は変化を求めていた。過去20年間にわたって2兆円以上を維持してきた出版販売額が2兆円を割り込んで市場が縮小。ツタヤを経営するカルチュア・コンビニエンス・クラブが出版元となり、知的好奇心旺盛な大人の読者層に支えられていた『エスクァイア』、1979年の発売以来、鋭い論評の執筆陣によるコラムとインタビューが名物の『STUDIO VOICE』(インファスパブリケーション)が休刊という名で事実上の廃刊となる。
 
そんなお寒い状況で、日本のファッション界にちょっとした事件が起こる。2009AWコレクションを最後に、ナンバーナインがブランドとしての活動を終了することがアナウンスされたのだ。デザイナー宮下の体調不良が主な原因とされ、音楽好きの彼らしくバンドに倣いブランドの”解散”という形式でアナウンスされた。エディによるディオール・オムに続きナンバーナインが終わったことで、約10年間続いたロックスタイルの信奉者たちは、その象徴的なブランドを失うことになった。ナンバーナインをしばしば特集していたメンズ・ノンノの愛読者にとっては大きな事件かも知れないが、私自身にとってこうした反応はあまりにセンチメンタルというかナイーブに映った。

武闘派アメカジブランドが一部でヒット

それまでのトラッドやアウトドアとは違う視点で、ベーシックなアメカジを再解釈する骨太なブランドが地道にファンを増やしていた。その筆頭は1997年からスタートしていた「テンダーロイン」で、物作りにこだわったオーセンティックなワークスタイルを展開。その中心人物であった辺見馨と西浦徹は、さまざまな武勇伝と人脈を持つカリスマ的存在として、度々ファッション誌で取り上げられていたが、この年に辺見がテンダーロインから離れ、自身のブランド「アットラスト」を立ち上げファンを驚かせた。当時私が在籍していたセンスの守谷編集長がデザイナーの西浦と懇意にしていたこともあり、頻繁にテンダーロインを特集してファンからの反響を得た。一方、アットラストは表参道にひっそりとショップをオープンさせるも、メディアへの露出を極端に嫌い完全に独立したスタイルを貫きながら、コアなファンを惹きつけている。
 
また、テンダーロイン初期のメンバーの一人で、モデルとしても活躍していた渡辺真史による「ベドウィン&ザ・ハートブレーカーズ」(2004年)のクロップドパンツが大ブレイク。米ディッキーズとのコラボによる“トリップスター”と名付けられたパンツは、腰回りには余裕を持たせつつ、膝から下へとテーパードさせた7分丈のシルエットが特徴。このパンツが大ヒットしたため、裾を長く取って足元でクッションさせる往年の腰穿きは確実に過去のものへとなっていく。また渡辺の友人であり、一緒に会社を立ち上げた仲間でもあるHUEが手がける「デラックス」(2003年)もファッション好きから注目を集めた。両ブランドはアメリカ西海岸のスケボーカルチャーやUSパンクの要素を取り入れながら、従来の裏原ブランドとは一味違う大人のストリートブランドとして広くアピールした。アメカジを通過した世代にとって、リアルで親近感のあるカジュアルが次第に支持を広げ、脱ロック化が加速していく。

エディ後を担ったリカルド・ティッシ

さまざまなラグジュアリーブランドでデザイナーの交代劇が報じられる中で、「ジバンシィ」に就任したリカルド・ティッシが、頭ひとつ抜けた存在として注目された。ショーツとレギンスを組み合わせたスタイルや、ゴシックテイストのグラフィックアイテムを披露。黒人や中近東系のマッチョ系モデルを起用し、ヘアスタイルはギャングを思わせるベリーショートにしたのも特徴。多くのメディアで、“ファッションコンシャスかつハイパーマスキュリン”と絶賛され、以後しばらくはパリ・コレクションで最重要ブランドと目されることになった。

ウィメンズにおいてもリカルドの手腕は突出していて、マドンナやキム・カーダシアン、ビヨンセといったセレブリティのための衣装を次々と手がけた。さらにトランスジェンダーモデルを起用したり、メンズとウィメンズの合同ショーに取り組んだり、新しい挑戦にも果敢に取り組んだ。特にヒットしたのは、スター柄をネック周りにプリントしたTシャツで、後に多くのブランドが彼のグラフィックを模倣するようになった。ちなみにリカルドは東京ブランドのテンダーロインの愛用者であることが報じられ、シンパシーを抱く日本のファンも少なくなかっただろう。

カニエ・ウェストがパリコレの常連に

00年代の音楽シーンは、ロックとダンスミュージックの融合という流れがあった一方で、ヒップホップが大きな存在感を示したことも忘れてはならない。アメリカでは完全にヒップホップがチャートを独占し続けており、中でも突出したアーティストがカニエ・ウェストだ。2004年のデビューアルバムですでに、ヒップホップシーンでは大きな注目を集めていたが、2007年に発表したサードアルバム『グラデュエーション』でその評価は決定的となった。本作収録曲の“ストロンガー”では、なんとダフト・パンクの出世作『Discovery』収録の“仕事は終わらない(原題はHarder,Better,Faster,Stronger)”をサンプリングして世界的ヒットを放った。
 
これまでのヒップホップは自らのルーツである、ジャズ、ソウル、ディスコからのサンプリングが一般的だったのに対して、カニエはAORの代表格で白人バンドであるスティーリー・ダンや同時代のフレンチ・エレクトロニカのトップであるダフト・パンクまで取り込むことで、ヒップホップの新たな可能性を引き出すことに成功した。しかも、本作のアートワークを手掛けたのが、日本の現代作家である村上隆であることも特筆すべきだろう。2003年にルイ・ヴィトンとのコラボを実現させ、ファッションとモダンアートの架け橋となった日本人アーティストを起用したカニエは、音楽のみならずファッションとポップアートにも先見の明を持っていたことを強く印象付けた。
 
以後、グラミー賞の常連となっていくカニエは、世界一有名なポップスターとして君臨。彼が着た服やスニーカーにも注目が集まり、その一挙手一投足にパパラッチが飛びつくようになっていく。すでにパリ・コレクションの最前列に招待されるようになっていたカニエが、招待状なしでショーに入場しようとして警備員と揉めたことが報じられたのもこの年。『服は何故音楽を必要とするのか?』(2012年:河出文庫)で、先端モードと音楽の関係性を解き明かした、作家でありジャズミュージシャンの菊地成孔氏に私がインタビューした際のコメント(2019年web LEON)を抜粋する。
 
「当時のゴシップ誌には“付き合っていたモデルにフラれたカニエが、パリコレまで来てストーキングしている”なんて書かれていましたが(笑)、もちろんそんな訳ではありません。ラッパー(を含めた黒人音楽家)の服装は、ラグジュアリーブランドと手を組んでいかないとその先がないと彼は予見していて、自らアプローチしたという訳です」
 
以後もカニエはパリコレに足繁く通い、同郷シカゴ出身の朋友ヴァージル・アブローとともにフェンディのインターンを経験するまでに。カニエのファッションへかける情熱が並々ならぬものであったことが分かるエピソードだ。ちなみに、この翌年センス編集部の同僚が、伊勢丹メンズ館前でカニエを偶然見つけてスナップすることに成功した。カニエはパリのみならず、東京のファッションシーンにも目を配っていたことが分かる。また、カニエの才能を見出したジェイZは、ソロデビュー以降ヒットチャートの常連となっていたビヨンセと極秘結婚をしていたことも話題に。

アクセシブル・ラグジュアリーがメンズにも

高額なラグジュアリーブランドには手が出しづらいが、やっぱりブランド物のバッグが欲しい。そんなミドルアッパークラスに2000年代半ばからアプローチしていたのが「コーチ」だった。野球用グローブを作る小さな皮革工場が出自で、60年代にレザーブランドとして成長を遂げたが、85年に買収されて以降は失速。2000年代以降はリブランディングを経て、2009年には60年代のコーチを支えたデザイナーの名を冠したボニーコレクションを発表。メンズ誌にも積極的なタイアップを打ち、日本でも新しい購買層を開拓。ブランドイニシャルのCをあしらったモノグラムシリーズも女性に受け入れられ、現実的なプライス設定と安定したクオリティがそれを支えた。コーチの世界的な成功に続けとばかり、「マイケル・コース」「トリー・バーチ」が日本に次々と上陸。その流れに便乗するように1992年から日本で展開していたイタリアの「フルラ」もタイアップを増やして認知度を高めていった。こうしてアクセシブル・ラグジュアリーという、中途半端なカテゴリーがここ日本にも定着していく。本来ラグジュアリーとは一般層の手が届かないものだから、そもそも語義矛盾なのだが…。
 
また、ギャップよりも本格志向でラルフ・ローレンよりかはいくぶん安いという絶妙なポジションにあった「アバクロンビー&フィッチ」が日本上陸を果たし、銀座店がオープン。元々は1892年に創業したスポーツショップが出自で、かのアーネスト・ヘミングウェイが愛用した由緒あるブランドだったが、筋骨隆々の白人男性をモデルに写真家ブルース・ウェーバーが撮り下ろした広告ヴィジュアルで、00年代前半に全米でブレイクしていた。同ブランドの香水を振り撒いた薄暗い店内ではダンスミュージックが大音量で流れ、半裸のスタッフが接客するという異様なスタイルは、良くも悪くも大きな話題となった。しかし、実際にアバクロが日本のファッション関係者の間で話題になっていたのは2000年代の半ばくらいまでで、遅きに失した日本上陸は総スカンを食った形となった。この後もアバクロ経営者による人種差別・性差別的と取られてしまう言動や運営が仇となり、海外では度々訴訟沙汰となりネガティブなイメージが定着。再浮上するまでには、かなりの時間が必要となりそうだ。
 
 続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?