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団塊ジュニア世代が見てきた東京メンズファッション30年史③

就職氷河期にまぐれで雑誌編集者となる

学生時代から音楽とファッションにのめり込んでいた私にとって、雑誌の編集という仕事は魅力的だった。本当に馬鹿らしい理由だけれど、自由な服で出社可能で、勤務時間も縛りが少ないことがその理由だ。何より音楽や映画といったカルチャーを発信する側に立ちたかった。しかし、就職活動は難航。書類選考だけで40社以上も落とされて、一次面接に進めたとしても次々と落選。それなりの大学を出たと思っていたけれど、大手の出版社はやはり狭き門だった。親父のコネを使って一次試験をパスした出版社でさえ、結果は即不採用。後に我々が就職氷河期世代と呼ばれるようになるが、どの出版社からも内定をもらえずにいたこの時期は本当に惨めな思いをしていた。

 突出した経験も才能もないただのパンクロック好きの大学生が、いくら自分の熱い想いを志望動機に書き込んだところで、採用担当者に通じる訳もなかった。もはや就職浪人するしかないと諦めかけていたところ、たまたま見つけたワールドフォトプレスという中堅出版社で倉庫のアルバイトをすることに。倉庫番のちょっと意地悪な爺さんとのモヤモヤとした日々が半年ほど過ぎようとしていた頃、たまたま編集部に空きができたということで、どうにか正社員として潜り込むことができた。小学館、集英社、講談社、光文社、新潮社、角川書店、文藝春秋社、祥伝社といった大手ではないが、『モノ・マガジン』という当時それなりに知名度のある雑誌があったことは、ひとつの安心材料となった。

 まさに棚ぼたで編集者という肩書きを得た自分が、雑誌で取り組みたいと思ったテーマが音楽とファッションだった。入社するきっかけとなったのも、同社の『MA-1』というストリートファッション誌だった。当然その編集部を志望したのだが別部署に配属され、入社後数ヶ月もしないうちにMA-1は廃刊となってしまった。配属先の新雑誌開発部では、主にムック(MAGAZINEとBOOKの中間)と呼ばれる不定期刊行物を担当した。ヴィンテージジーンズ、ジッポーライター、ブーツ、フライトジャケットなど、アイテムごとに歴史から深掘りして、大量のカタログページを加えて1冊に編集する作業だった。ひたすらキャプションを書き、ポジフィルムを整理し、タクシー禁止でのリースと返却の日々が続いた。社会人になってからもバンド活動をしていた自分にとって、入社以降の数年間は浮ついたものだったが、先輩の見様見真似でなんとか雑誌作りというものを覚えていった。

アントワープ系デザイナーズブランドが上陸

 熱心なファッション好きとはいえなかった自分が、海外デザイナーズブランドに興味を持つようになったのは、倉庫番をしていたときに読んでいた雑誌MA-1がきっかけだった。そこには、「ヘルムート・ラング」「ジル・サンダー」「マルタン・マルジェラ」「ラフ・シモンズ」「ダーク・ビッケンバーグ」「ヴェロニク・ブランキーノ」「ドリス・ヴァン・ノッテン」といった、耳慣れないデザイナーズブランドが紹介されていた。その時はあまり意識していなかったが、特にアントワープ系と呼ばれていたデザイナーは今までのファッションブランドとは明らかに違っていた。

ミュージシャンが着ているようなレザージャケット、ボディラインが際立つブラックスーツ、パンクやニューウェーブの影響を受けたと思われる彼らの服を眺めていると、それまで自分が一方的に嫌っていたいわゆる高級ブランドとは全く異なる、知的で退廃的なカッコ良さがあった。高価だったのでこれらのブランドの服には手が出せなかったが、とにかくデザイナーズブランドのシャツが欲しくて、「アニエス・ベー」「キャサリン・ハムネット」「コム・デ・ギャルソン シャツ」を続けざまに購入した。それまではチェックのネルシャツばかりだったけど、ブロード生地の黒いシャツを着れば、最先端モードに一歩近付けた気がした。

セレクトショップの黄金時代が到来

 『夜霧のハウスマヌカン』と揶揄された、DCブランド全盛時代の80年代の若者はラフォーレ原宿、もしくはパルコか丸井といったファッションビルが主なショッピングスポットだったが、渋カジを通過した90年代の団塊世代ジュニアにとってはセレクトショップがその受け皿となっていた。アントワープ系をはじめとする海外デザイナーズブランドが掲載されているページの問い合わせ先は、だいたい「ユナイテッドアローズ原宿本店メンズ館」か「インターナショナルギャラリービームス」だった。この2つのショップに行けば、日本では珍しい海外ブランドに出会えたし、一歩上のお洒落を目指す男性にとって特別なショップとして現在まで人気を誇っている。

 「ビームス」(1976年)「シップス」(75年)「ユナイテッドアローズ」(89年)という、セレクトショップ御三家に加えて、90年代には新興セレクトショップが次々と参入。ベイクルーズによる「エディフィス」(94年)と「ジャーナルスタンダード」(97年)、上野商会による「ロイヤルフラッシュ」(94年)、シマムラ・トーキョーによる「ナンバー44」(97年)などが、次々と原宿・渋谷エリアにショップを構えた。新宿南口の複合商業施設フラッグスには、サザビーリーグによる「アメリカンラグ・シー」(98年)がオープン。女性からの支持が高かった「トゥモローランド」(78年)もメンズを強化し、90年代末にかけて群雄割拠とも呼べる状態になった。

 大まかな分布としては、アメカジならビームス、トラッドならシップス、デザイナーズならアローズ、ワークならジャーナルかナンバー44、フレンチカジュアルならエディフィスかトゥモローランドといったように、それぞれ明確に得意分野が違っていた。当時はインポート至上主義ともいえるファッションピープルがほとんどだったが、その頃から少しずつ展開を始めていたセレクトショップのオリジナル商品が少しずつ認知されてファンを増やしていった。根っからのファッション好きにとっては、ショップのオリジナルアイテムなんてと揶揄されていたようだが、学生をはじめとする若者にとってお洒落の入り口として重宝されていた。大学生の私にとってセレクトショップは敷居の高い存在で、足を踏み入れるだけで緊張したものだが、渋谷公園通りのビームスにバンド友達が勤務していたことで、インポートの靴やオリジナルのカットソーを何度か購入した。 

90年代末はファッションの終わりの始まり

 90年代以降のヨーロッパ主導のファッションは、さまざまなブランドを買収しながら、グローバルな展開によって膨大な利益を上げるファッション・コングロマリットの時代でもある。ルイ・ヴィトンやグッチといった直営店を銀座に抱える高級ブランドのジャパン社(日本法人)が次々と設立された。インポーターと呼ばれる日本の商社をすっ飛ばして、直接日本でビジネスを手がけるようになり大きな成功をもたらした。グローバル化が急速に進むファッション市場においては、製品イメージとクオリティの統一が重要であり、それまであやふやにしていたライセンシー契約を改めることで、ブランドイメージ向上に大きな効果をもたらした。やはり、製品タグの原産地表記はメイド・イン・イタリー、メイド・イン・フランスでなければならないのだ。

 一方、コンセプト重視のアントワープ系ブランドはこの波に乗ることはできず、反骨心のあるデザイナーの多くは00年代以降に失速する。あのマルタン・マルジェラですら、ディーゼルを擁するOTB(=オンリー・ザ・ブレイブ)グループに買収されて08年にデザイナーを引退したし、資本的な独立を維持したまま生き残っているのはドリス・ヴァン・ノッテンと、どうにかシグネチャーブランドを継続させているラフ・シモンズくらいだ(推敲中の2022年11月に終了してしまった)。実力が認められている世界的デザイナーですら、ファッション・コングロマリットのお抱えデザイナーとして生き抜く以外に道は無くなっていった。着心地が良くて独創的なデザインを発表すれば、ジャーナリストから評価を得て、その情報をもとに人々が買い求めるという、戦後からずっと続いてきたある意味で実直なビジネスの仕組みは過去のものになろうとしていた。そうした意味でも90年代は、ファッションの終わりの始まりだった。 

ストリートファッション誌の創刊ラッシュ

 90年代は自分を含めた多くの若者が、新しいブランドや海外の最新情報に飢えていた。私も『ポパイ』(76年:マガジンハウス)と『メンズノンノ』(86年:集英社)という、現在でも高い人気を誇る2大メンズファッション誌にほぼ毎号目を通し、ランウェイ写真を集めた『ギャッププレス』もチェックするようになった。さらに日本の雑誌では飽き足らず、海外の最新動向を知るため『ヴォーグ・オム』や『アリーナ・オム』といった洋雑誌を渋谷パルコ地下の書店で買うようになり、いよいよ本格的に最先端モードを自分なりに把握できるようになっていった。マッシヴ・アタックやビョークといった90年代を代表するミュージシャンを撮影していたニック・ナイトや、さまざまな高級ブランドの広告を手がけていたマリオ・テスティーノやスティーブン・マイゼルなど、大物フォトグラファーによるファッションポートレートはもはやアートの域に達していた。そうした先鋭的なヴィジュアルを掲載していた海外ファッション誌を通じて、知的好奇心を満たした。

 その一方で、同世代の関心事はスニーカーとジーンズで、90年代後半をリードしていたのがストリートファッション誌だった。“エアマックス狩り”なる物騒な言葉が登場し、社会現象にもなった第一次スニーカーブームを察知して、他社に先駆けて最新スニーカー事情を取り上げた『ブーン』(86年:祥伝社)がストリートファッション好きのバイブルとなる。その成功に乗じて、『スマート』(95年:宝島社)、『アサヤン』(95年:ぶんか社)、『ゲットオン』(96年:学研)、『ストリートジャック』(97年:KKベストセラーズ)といった“ストリートファッション誌”が次々と創刊。誌面ではスニーカーとともにヴィンテージジーンズも人気を誇り、さまざまな年代の特徴を詳細に伝えた。また、スニーカーとジーンズに次ぐ人気アイテムがGショックで、海外限定モデルや数量限定モデルがレア物と称され誌面を飾った。

 私が新たに編集担当となった『バイキング(Buy-King)』(99年:ワールドフォトプレス)も、そうしたストリート誌の人気を受けて創刊された隔月ファッション誌だった。子会社の通販会社が取り扱う衣料品や雑貨を紹介するカタログを編集記事と組み合わせた内容で、誌面に掲載する商品は基本的にすべて通販できることを特長としていた。それらは電話で在庫を確認後に郵便為替で購入するというもので、ワンクリックで完結するネット通販が当たり前の現在から考えると、本当にアナログで面倒な作業だった。とはいえ、地方では取り扱っていない東京のインディペンデントなブランドや珍しいインポートブランドを手にするためには、いずれにせよ雑誌を頼る以外になかった。 

レア物とヴィンテージという日本人独自の価値観

 それぞれの雑誌にキャラクターの違いはあったものの、ブランドに主眼を置くスマートとアサヤン、アイテム自体を重要視するブーンとゲットオン、その中間を狙ったストリートジャックという印象があった。前者がメンズノンノやポパイをある程度模した誌面作りだったのに対して、後者はとことんアイテムを掘り下げながらその歴史と分派までをカタログ的に網羅してマニアックに追求していた。結果的にはスマートの一人勝ちとなっていくが、ブーンが打ち立てたアイテム偏重主義で、希少性=レア物を追い求めるという独自の文化は後のスニーカーブームに引き継がれていくことになる。

 スニーカーやジーンズを交換価値と使用価値とに分けて考えると、この日本独自のブームを説明しやすい。交換価値とは、ある人にとっては価値があってもある人にとってはそうでない相対的な価値である。対して使用価値とは、その物を使用することで得られる効用が誰にとっても一定である絶対的な価値だ。例えば、ナイキのエアフォース1のスニーカーとしての使用価値は一定だが、販売数の少ないモデルや珍しいカラーリングであれば交換価値は何倍にもなる。同様にリーバイス501の使用価値は一定だが、特定の年代の中古品はボロボロでも交換価値は何倍にもなる。

 このように希少性に差異を見出して、交換価値を競い合う日本独自のアイテム信仰がこの頃の東京で確立されていた。海外のファッション関係者の多くは使用価値にしか興味がなく、レア物やヴィンテージという交換価値はほとんど理解されていなかった。しかし、00年代以降に日本独自のストリートファッションが海外で取り上げられるようになると次第に欧米の若者にも浸透し、当地の中古相場は次第に値上がりした。

続く

 

 


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