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ショートショート⑯地中海に浮かぶ国

親父とお袋を連れて、僕は遠く離れたヨーロッパの島国にやって来た。
関空からドバイで乗り継ぎ、マルタ国際空港に着くまでに要した時間は約20時間。しかし、マルタ共和国は日本よりも8時間遅いので、移動時間と体感時間がつり合わない。何だか不思議な気分だ。

空港には、誰でも自由に弾けるピアノが設置されてあった。

両親はもちろん、僕ももう若くない。長時間のフライトもあったし、まずは休みたかったのでバスに乗って、セントジュリアというマルタで一番栄えている街に向かった。そこに今日泊まるホテルがあるからだ。

マルタという国は小さい。東京23区くらいの広さしかない。元々はイギリスの植民地であったため公用語は英語。ヨーロッパで英語が公用語というのは、実はイギリスとマルタの2国だけなのだ。

3月のマルタは抜群の気候であった。こういうのを「チル」と言うのだろうか。
ホテルに着いた僕たちだったが、親父とお袋はひとまず部屋で休ませ、僕だけ外を散策してみた。

写真では見ていたが、写真よりも綺麗な場所がこの世に存在するなんて。僕はすっかり地中海に浮かぶ小さな島の虜になっていた。
まさに海と船の街。さぞ美味しい魚介料理が楽しめるのだろうと思い、僕はレストランを探した。

街を歩く人の顔をよく観察して分かったのだが、アジア系の人はそれほど歩いていない。どちらかというと、イタリア系の彫りが深い顔立ちが目立つ。僕はあまり英語が話せないので、こうして外国を一人で歩くのは少し不安だが、35歳になってこういうドキドキ感を味わえるのは貴重なことだ。

程なくして、僕と同じような年頃の日本人男性が、一人でフラフラしているのを見つけ、思わず声をかけてしまった。
「あの、日本人の方ですか?」
「あ、そうです」
「僕、いま来たばっかりなんですけど、どこかおすすめのレストランとかないですかね?」
「実は僕もさっき着いたばかりでね。でも、この辺に良い店があることは調査済みなんですよねー。よかったら一緒にどうですか?」


僕たちはウサギを食べた。少し抵抗はあったが、日本ではできないことをしようということで思い切って食べてみたのだ。鶏肉みたいで美味しかった。どうやら誘ってくれたこの男性はウサギを食べるためだけにヨーロッパを転々としているのだという。とても謙虚な良い人だった。
彼はまた別の店にウサギを食べに行くというので、その場で別れた。そういえば、名前くらいは聞いておこうと思って、追いかけようとしたが振り返るとそこにはもう彼はいなかった。

マルタは夜になった。僕は一度ホテルに戻って、親父とお袋を連れて3人で夜の街へ繰り出した。

小規模だがデパートみたいな施設があるし、映画館もあるし、マクドナルドもあった。当たり前だが、秘境の地と呼ばれているこの島国でも、ちゃんと経済が回っていて、一人一人に守るべき家族がいるのだ。

すれ違う人たちが僕たちを見ていた。アジア人が珍しいのか、それとも別の理由か。

歩いているうちに、僕たちは海にぶつかった。地中海だ。このまま真っ直ぐ進めばイタリアに着くのかな。

特に何があるというわけでもない。これからの夏シーズンになると、海水浴を楽しむ人で賑わうのだろうが、3月の夜はやはりまだ閑散としている。

しかし僕は、この場所もまた気に入った。この国はどれだけ僕にチルを提供すれば気が済むのだろう。しかもこの短時間で、だ。

「一つ目の場所は、ここでいいんだな?」

僕は両親に問いかける。この海は、親父がお袋にプロポーズをした場所なのだ。
マルタで日本食レストランを経営していた親父は、マルタ大学に留学で来ていたお袋と出会い、二人は恋に落ちた。結婚後もしばらくはマルタで生活していたらしいが、お袋が僕を妊娠したことで「出産や子育ては日本の方がいいだろう」という判断で日本に帰国し、そのまま僕たち家族がマルタに戻ることはなかった。

もし、マルタで生まれ育っていたら全く違う人生だったのだろうなと思う。どっちが良かったのかはどうしたって分からないが、親父とお袋がこの国に惚れ込んでいたのは分かる。

僕はすっかり軽くなってしまった両親を抱え、砂浜から水が広がっている方へ歩き、靴に水が浸かるくらいのところまでやって来た。小さな波が寄せては返す。

そして、僕は空港からずっとケースに入れて持っていた、親父とお袋の遺骨の一部を、海に向かってばら撒いたのだった。

サポートしていただいたお金を使って何かしら体験し、ここに書きたいと思います。