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「辞めたい」「じゃあ辞めれば?」の次元を超越せよ

何でもかんでも二元論にしてしまうひとがいる。
「生きるのが辛い」
『じゃあ死ねば?』
「会社しんどい、上司ムカつく」
『じゃあ辞めれば?』
「酒が飲みたい。ふっと飲みたい」
『じゃあ飲めば?』

という思考回路の持ち主だ。

起きている問題を対極の行動で消しとばせると思っているのだろう。『二元論くん』はそういう、面倒で苦しい問題を別の痛みで片付けようとしてしまうひとだ。そして僕は完全にそれだ。トラブルをどんどん足して引いてかけて割って=にしてしまう。

すぐに生きるとか死ぬとか続けるとか辞めるとか残すとか捨てるとか止まるとか離れるとかの話に飛躍するのはどうなんだろう。

たしかに二極化しまくると、あらゆることはショートカットはできる。でも大事なものを落っことしやすいんじゃないだろうか。なぜならほとんどの大事なものは中途半端な位置、ちょうどいい温度の中にあるからだ。僕たちは紅蓮の上でも凍土の下でも生きることができない。

断捨離という言葉が誰しもに通じるようになって久しい。しかも良い意味で使われることが多い。「捨てられないひとは執着心が強く、リテラシーが低い」という文脈で、このワードは放たれる傾向がある。

僕はぽんぽんと物事を捨ててしまうので、自分が肯定されるようで気分が良かった。「そうだそうだ、辞めろ失え消えろ別れろ」と吠える自分が上級な精神性を備えていると錯覚した。

でも断捨離というのは良くも悪くも二元的な行為だ。面倒で半端なら捨ててしまえば良い。執われるなというパワーアクションだ。

かなりスッキリするし、断捨離好きは否めない。でも弱く紐付いていくことも、鈍く輝くとは思うのだ。ベッタリでも、無関係でもなく、ゆるりと側を旋回しているような関係はどこかあたたかさを感じる。

人間だけじゃなく、趣味や仕事、死生観、宗教なんかにも当てはまる。信念があることで軸は頑強になるが、ほどほどな温度で向き合うと楽しめることも多い。
これも二極化するのではなく、二つの要求を満たすことはできると思う。「ゆるく信念を持つ」みたいな話になるが。

二元論で考えすぎる人間は妙に腰が重くなる。論理的、合理的すぎて、AがBをもたらさないことが分かるとAを起こせない。

ボルダリングをやってみたいが、なかなかやれない。引っ越しもしたいがめんどくさい。もう一度会いたいひとがいるが、連絡をとれない。

僕の人生はこういうことが多い。人生なんてバカでかい主語をいちいち出してしまうのも二元グセのせいだろうか。
何事も「するまでもないか」と思ってしまう。「行報酬が一定以上じゃないと行動を起こせない」というグズなのだ。

二元うつに悩まされることも多い。極端じゃなくていいんだぞ俺よ、と呼びかけるも、沸騰するか凍結するかの考えを基にしてしまう。「やってみたいから」だけでAをやればいいのだ。Bに繋がっていなくてもまだ見ぬCが訪れるきっかけになるかもしれない。

春になってきてしまった。次の季節が来ることをワクワクできるひとがいる。羨ましい。
僕は毎年のことなのに、歓迎しているかというとそうでもない。季節なんて来たら来たで構わない。「呼ぶほどのことでもない」と思っているからだろう。それは呼ぶほどの報酬が得られないからだ(次節を呼ぶ手間の負担は知らないけど)

自分が神だったらかなりつまらない世界になっていたと辟易する。僕の日々にとって、僕の思考は神同然なのだが、だから自分の人生は灰色なのかと最近腑に落ちてもいる。

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