2019年への自分へのメッセージ!

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一年前の自分に手紙を書こう!**


そんな企画をネットの記事で見た。

一年の始まりだ。ここらで一発、一年前を思い出してみるのも悪くない。

過去を振り返ってばかりも良くないが、絵本を開くぐらいの気持ちでのぞき見ると、過去には「経験」という名の教訓と、小さな笑いが詰まっていたりする。

一年前の僕は「次のバンド」と「春の起業へ向けて」 と、この二つで頭がいっぱいだった。

それもこれも、ずっとやっていたバンドが解散したからだ。

盛大な葬儀!大勢の参列者!イカツめの香典!

QOOLANDをやるだけやって、ミュージシャンとしてバッチリ死んだ。「燃え尽きた」と言っても過言ではないほど、しっかり火葬された。

これで人生が終われば一番いいのだが、そうもいかない。

まったくもってマヌケな話だが、現実は漫画や映画と違って、幕が降りた後も登場人物の人生が続くのである。

霞を食っているわけではないので、何かしらやらないと生きていけない。
もちろん「もう生きなくてもいいか」と、しびれた考えも多少頭をよぎった。ロックバンド解散の前後はじつにピーキーな日々なのである。

うつ&アル中を泳ぎながら、ギリギリ自殺しなかった。これはTobariとjuJoeの立ち上げがあったからだ。無かったら死んでいた。「音楽にまた命を救われた」とも言える。

ステージへの復帰と、経済ジャングルへの挑戦が始まった。2019年の一月をまとめると、そうなる。凄まじいプレッシャーだった(もちろんワクワクが勝っていたが)。

一年前の自分に告げたいことは、『あのとき頭を占めていた苦しみは今現在、何一つ無い』という事実だ。

というより何について苦しんでいたかも覚えていない。完全にアホである。しかしそんなものではないだろうか。

年月の破壊力は凄まじく、一年で人生指折りの挑戦すら、日常の中に溶かしてしまう。キツイことの大半が霧散するのだ。

「解散は退職に近い現象」とよく言われたが、果たしてどうだろうか。たしかに似ているところもあるし、違うところもある。

大小様々な環境の変化が訪れる。その中でも、解散による最大の影響は「人間関係の整理整頓」だろう。

「配られたカードで勝負するしかねぇべ」と言い聞かせて、ハードな人生をヘタクソにやってきた。
何の『役』もできていないのに、「将来」や「現在」や「安定」をベットし続けた二十代だった。

僕はこの「配られたカード」という表現を、才能や実力、性格、ルックスなど能力を指す比喩だと思っていた。能力こそが『役』を構成すると考えていたのだ。

しかし、ここまで生きてきた感触だが、「カード」とはどちらかと言えば、人間である。
自分の力よりも、まわりの人間の具合で、『役』が決まり、人生の方向は決まっていってしまう。

この「カードの配り直し」が「解散」だった。

ポーカーのカード交換でいうとこの、全とっかえだ。何年もかけて作り上げた『役」を棄てた。

解散しても、再び関わるひともいたし、二度と関わらないであろうひともいる。だけど、ほとんどの人間が後者だ。けっこう関わらなくなる。

一度『山』に戻したカードが、また手札としてやってくることは無い。みんなそれぞれ、目の前に精一杯だから仕方ない。過去のパンドラの箱をパコパコ開けられない。

これは僕の欠点とも言えるし、自らの精神衛生上のケアとしての「うつの予防」とも言える。

これまでも「むかし関わった人間」と再会して、いいことが少なかったのだ。そのひとは「自分物語」の中では現れなくなった「終わったキャラ」だからだ。
こち亀でいうところの戸塚だし、ドラゴンボールでいうところの兎人参家だし、コナンでいうところの新出先生だ。

終了したキャラがたまに描かれるときもある。スピンオフとしてフューチャーされたりする作品も昨今増えてきた。

だけど、やはり本編のキャラとは関わらない方がいい。「巡り会い」というのは絶妙なバランスのもとにできているからだ。

フクモト先生に僕のむかしの話をすると「そのとき、平井さんと出会わなくてよかった」と散々なことを言われる。しかしその通りなのだ。

今日、あなたが手を繋いだり肩を組んでいるそのソウルメイトだって、出会った日が一年前後していたら、きっとすれ違っていたはずだ。

だからだろうか。

facebookはそのバランスを崩す装置に見えるのだ。LINEの「友達かも」なんて余計なお世話だ。友達だからなんだと言うのだ。

「友達だった」「メンバーだった」「恋人だった」

そんなひとの方が、他人よりずっと遠いはずだ。

昨日まで抱きしめ合ったのに、挨拶すらできなくなる。そんなことの繰り返しの果てに、大人になってしまった。

名字の変わった元カノの存在が、別れたメンバーの報せが、自分にひどく酒を飲ませようとしてくる。

あなたは「アル中」と聞いてどういう人物を思い描くだろうか。

おそらくアルコール切れの果てに、のたうちながら「酒ー!酒をくれー!」と絶叫していると、お思いではなかろうか。

実際はあんなものではない。

腹が減っているときに、それまで忘れていた酒の存在を思い出したりするのだ。

変に不安でイラついたり、誤って過去の箱を開けてしまったときに「嗚呼、イマ一杯飲んだら・・・」という考えがポンと浮かんでしまう。

気合いや薬で打ち消すのだが、その考えは日常のあちこちで顔をのぞかせる。

「たまらなく飲みたい!」というのではないのだ。
漠然と「ここで一杯飲んだら」と考えてしまうだけだ。
「そういう回路ができあがっている」という感覚だ。

不安、苦痛が訪れると「飲む」という回路にジャックインされる。精神病理学で言えば、報酬系の回路が確立されてしまっている状態らしい。そうなるとやはり取り返しがつかない。

一年前、ソウルメイトと会社立ち上げの話をしていた。

歌舞伎町の汚い居酒屋だ。ユウスケくんと最初にjuJoeの話をした店だ。男と契りを交わすときしか行かない店だ。

一年前以来、僕はあそこに誰も連れて行っていない。

夜通し飲んでいた。

二人とも散々酔っ払って、「夢があって!」とか恥ずかしくなるぐらいの話をしていた。お互い過去がちゃんと小話になるぐらいの年齢なのに、未来の話ばかりした。

それでも一年も経てば、酔っ払わないと話せなかったことでも、シラフで話せるようになるのだ。もう夢は現実となったし、現実をさらに上の夢に押し上げていかないとならない。

あのときボンヤリしていた夢は一年間でいくつも叶った。

昔から「月収も根性で増やして」とか「ベンツとボンゴ」とか資本主義に対して、激しい競争意識があった。やれるかぎりの力を振り絞った。

商売をすると、今まで見えないものがたくさん見えた。クソより汚い人間の部分も見えたし、金銭というもので動かせる限界も見えた。

しかし、人間は本気を出せば自分次第で、無形のものをこの世に実在させられるということも見えた。

食ってくため、生きるため、自分の中の闘争心のようなものが枯れないようにするため、叶えるため、可能な限りやってきた。

思い返せば、いつもこうやって始まったし、いつだってこうしてきたし、それが一番居心地がよかった。

一年前、2019年に立ったばかりの自分に何が告げられるだろうか。

一年前の僕にもあなたにも言えることは「今の苦しみは、じき消える」じゃないだろうか。

耳を澄ませば2020年の4月の自分からも「それ消えてる!」と聞こえてくる。

後はなんだろう。

うーん。平和?かは分からないが、今現在、満ち足りて生きているぞ、一年前の俺よ。



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