達成できなくても「今より近い位置には行く」というのは生きていく上でじつはものすごく重要
戦争紛争のニュースが多い。
こんな大事が起きると自分が何をしようと思おうと無力なのだと改めて突きつけられるし、気力を根こそぎ持っていかれてしまいそうになるので、哲学を掴んで飛ばされないように努めたい。
月間5冊以上は未だに本を読む。僕は本さえ読んでおけば大丈夫なんじゃないかと勘違いしているほど、読書の破壊力を信じているからだ。
自分の何倍もキャリアがあって優秀なひとが伝聞しようとした情報が活字で詰め込まれているのだ。「最強のまとめ」とも言えるだろう。読むっきゃない。
飛ばされないための手すりを求めているので、ここ数週間は異様に東洋哲学に吸い寄せられている。ウケるのだ。西洋哲学の「論理を限界まで高めて説明する」に対して、「しっかり分かってなくても、説明できなくても着地すれば良い」が東洋の特徴だと思う。
例として西洋哲学であるヒルティの幸福論のロジックの精妙さに注目してみる。
「貢献度がイコール幸福度である。年収10億円でも穴を掘って穴を埋めるだけの仕事をしていても幸福は感じにくい」と解いているのだが、かなり分かりやすいし、実際腹に落ちる。「なるほど」と言いたくなる。
反して東洋哲学にある道教や儒教、仏教なんかは激しく不遜だ。
「悟ったら世の中の苦しみすべてを乗り越えられる。真理(ゴール)に達した俺が言うんだから間違いない。聞けよ」などという姿勢なのだ。
つまり西洋の「どうしたら分かるかなぁ」という取り組み方に対し、東洋の考え方は「分かったやつの話を聞く」だと言える。
正確には「悟った偉人の話を研究しているやつの話」だ。「偉いひとが言ってたことってたぶんこう!」とディグるのが東洋哲学だ。
言うなれば完結済みの作品について語り合うオタク、解散したバンドの話をし続けるファン、熱狂的な歴女みたいなものだ。
すでに悟っている人物、真理に到達したひとの話を延々とマニアたちが討論しているのに近い。つまり東洋哲学は、もう結論の出ている完結済みのドラマなのだ。ドラマ放映後、そのファンたちが集まってきて、延々と議論をしている。
東洋哲学はここに楽さがある。
釈迦とか老子はたしかにいろいろ語ったのだけど、言葉も少なく、論拠にも乏しい。彼らはそもそも「広め屋さん」ではないからだ。「自分はできているし、分かっているけど、たぶん凡人どもに分からすのは無理」とまで思っていた。
小田和正がインタビューで「どうやって高音発声をしているんですか?」と聞かれて「シャウトしてるだけ」と答えていたが、アレに近い。後世の人々は少ないヒントから「小田ってきっとこういう風に歌ってんじゃないかなぁ?」と議論を続けて、解釈を掘り進めていく。
そして「釈迦の悟り、老子のタオなんて言葉では分かりません」と書かれた本が生まれている。新しいものが令和の世になっても発売される。
「言葉では分かりません」と『本』という「言葉でできているもの」に書かれているのだから面白い。しかも「まぁお前らに言ったところで分からんけどな」という姿勢で書かれている。これが東洋哲学書なのだ。
でもこれが案外心地良かったりする。
たとえば「執着をなくせば苦しみが消えまっせー!」という哲学がある。これを「競争社会、現代の苦しみに踏襲すればちょっと生きやすくなる」と書かれた本として生まれ変わるわけだ。
しかし執着をなくすなんていうのは生半可な難しさではない。そういうものがたくさんある。
でもそれが良いのだ。できなくても答えが分かるだけでも救いになる。学んだぐらいで無敵にはなれないが、突風に吹き飛ばされないぐらいの手すりにはなってくれる。たぶん哲学というのはそういうものだ。
「何で」など考えたくないときもある。今がそれだ。
誰かに説明する必要もないし、ただただ良くなりたい。何でこんなに苦痛なことばかり起きるのか、などと暗いことを考えても仕方がない。
良い方向を目指していけばたどり着かなくても、近付きはするのではないかと思う。ボールを吹っ飛ばせば、穴に入らなくてもグリーンには乗ったりする。
「達成できなくても今より近い位置には行く」というのは生きていく上で、じつはものすごく重要なことな気がする。
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