会っていないひとたちの生命活動に興味がない

死を意識している。「どんだけ!?」と驚愕されたこともある。

文脈は様々だが、一日に一度は『死』という言葉を使って喋るからだろう。我ながら不気味な言語感覚だと思う。

なぜかと考えたのだが、僕が『死亡』を生命活動停止だけじゃなくて、『別れ』もそこにカウントしているからかもしれない。

年明けが来ると、まず十二ヶ月後をイメージしてしまう癖がある。そして、今そばにいる人間のほとんどが、年末になる頃には去ってしまっている気がしてしまうのだ。

「今年もきっといくつもの破滅があるだろうし、別れが訪れるなぁ」と悲哀予想が止まらない。

もちろん『別れ悲哀イメトレ』なんて、試みないひとが多いと思う。

だけど、誰しも「そろそろ保存がきかなくなる関係、事象」をいくつか持っている。

気付いているか気付いていないかは置いといて、「いよいよ別れないと…」というひとがいるということだ。「いよいよ諦めないと」という夢があって、「いよいよ離れないと」という場所がある。

すべての物事に期限というものがある。

今日一緒にいるひとは、おそらく十二ヶ月後にはいない。事実今年もそうだった。

2020年正月の段階では「仲間」と呼べたひとたちがいた。やはり一年かけて、何人もと別れた。

もちろん惜別を拒絶するセンスとは絶交している。だけど寂しくないかと聞かれたら嘘になる。社会動物である以上、離れ離れになるのは痛いモノだ。

それでも別れる。死ぬ。関係も夢も場所も飛散する。

削って減らして、空いたところにまた何かが収まっていく。でもその新品もいつか捨てないといけない。

「故人はその想い人が忘れさえしなければ、胸の中で生きている」という例えがある。

僕はこれをマジだと思っている。

たとえばめったに会わないひとがいる。今はツアーもできないので、新潟や郡山、北海道、大阪、九州、四国などしばらく行っていない。

思い返すと数年会っていない方々の顔が浮かぶ。

変な言い方になるが、僕はこの数年会っていないひとたちの生命活動に興味がないのだ。

しばらく目にしていないのだから、現状を想像するしかないし、会えないひとの言葉や印象は思い出の中にしかない。

おかしな言い方だが、生きているか死んでいるかはあまり関係ない。

逆にもう死んでしまったひともいる。このひとが死んだかも関係ない。

通夜や葬式に行くと死去を実感するが、行かなければ、もっと言えば、知らなければ生死の境が曖昧になる。

死んだからと言って、こちらが『死』を必要以上に認知していなければ、いつかどこかで会える気のまま、別れた状態なのだ。

こちらの地点から見ると、生きていようが死んでいようが、別れたならば関係ない。

死んだひとも心の中ではちゃんと生きている。
二度と会えないのは同じだ。







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