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啓発史上最強のハードルの低さがやってきた

アウトプットは排泄だと言う話がある。身に覚えがあるが非常に分かる感覚だ。インプット過多の日々にほんのり考えたい。

下記は少し前の記事だが、Z世代の60%が自己啓発しているらしい。

「自己啓発」という言葉に対し僕の世代はアレルギーがある。極端な話、意識を高くすると嫌われる。そんな思い込みがある。

ちょうど今から10年前、「意識高い系」という言葉が流行り出した。2012年に発売された本のタイトルがキッカケだったが、「意識高い系」にムカついていた層が一定数いたのか、その言葉は一気に浸透した。

意識の高い発言をすると、すぐに「意識高い系じゃん!」と言われる世界線が訪れた。向上意欲がある状態はおちょくる対象になった(今もかもしれないけど)

なぜそんなにも意識高い系はムカつかれていたのだろう。

今思うと不思議だが、振り返るとたしかに10年前はソーシャルへの理解力が不足していた気もする。

Twitterをみんなやっていたわけでもなかった。辞めたり辞めなかったりするひともいた。なんとなく人類全体が呟く気恥ずかしさになれていなかったような感じがする。

そんなセンシティブなタイミングでいちいち自分の意識の高さをアピールする人々はうとましかったのだろう。みんなの中に「恥ずかしがれよ」という心の声があったのだ。

だけど実際に意識の高い、というか勉強したり自己を高める動きをしていた人々はいた。彼らは修行の内容を呟くことはできず、ひっそりと刃を研いでいた。
もちろんいちいちそれをSNSに上げるひともいた。彼らは「意識高い系」で、上げないひとは認識すらされなかったのだ。
10年前の若者は二種類に分けられていたと言うと大袈裟だが、事実「ひっそりするひと」と「ひっそりしないひと」がクッキリ分かれていた。

今の若者であるZ世代にもいろんなひとがいると思う。ただ、「ひっそりしないひと」の割合が減ったのだろう。というよりも意識の高いことをアップすることなど、ウザくも何ともなくなったのだ。

その内容が「意識高い系」的なことであり、本質や中身がスカスカだったとしても誰もそんなこと気にしないし、「盛り」とか「映え」とかいう言葉が流行ったり廃れたりしているうちに、ただの風景になった。

何もかもアップロードする日々が基本になったおかげだ。加えて勉強したり、啓発することが意識の高いことでもなくなりつつある。

今や「SNSで勉強する」という啓発史上最強のハードルの低さも設定されている。難しい本の要約もTikTokの短い動画にまとまっているのだから驚きだ。

何でも学べるし、何でも詰め込める。僕もたまにYouTubeの本要約動画を見て、面白そうだったらそのまま買っている。
10年前、新宿のブックファーストの地下で立ち読みしまくって、それをそのままバンド運営に転用していたあの頃を考えると、夢のような時代だ。

しかしインプットが溜まりやすい時代とも言える。
この10年間で手のひらの窓から飛び込んでくる情報は信じられないほど増えた。
その割にアウトプットするためのハードルはそこまで低くなっていない。誰しもYouTuberになれるし、TikTokerになれるとは言え、この溢れる情報の大渦に比べると、アウトプットのバランスは良いとは言えない。

人類は進化するといつも貯蔵に走る。貯め込むのだ。一万年前に狩猟から農耕へと移行したが、この動機も「貯められる」ことにある。

100年前、肥満のひとはほとんどいなかったが今や5人に1人が肥満体型だ。太りすぎである。飢餓で死ぬよりも太って死ぬ人間が多発している。

情報も入ってくるのは良いが、ある程度出さないとおかしくなるのではないだろうか。いや、肌感だけどおかしくなっている自分に気付くときがある。

飛び込んでくるニュースのほとんどが、知らなくてもいいことばかりだ。どっかの誰かが誰かをぶっ殺したという知らせが、自分の中に入ってきたところで何にもならない。

でもこうしてサクっとnoteに何かを書いておくだけでずいぶん整うのだ。
この「アウトプットは排泄」という感覚はみんなあると思う。
やはり誰かしらに伝えていくということは、自分のためにも丁寧に続けていきたい。何になるのか分からないが、何にならなくてもいい。読むひとにとって必要な知らせでもないのだから。


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