「読んで良かったぜ」を目指して

「読んで良かった」
「読んでも悪くはなかった」
「読む前より読んだ後の方がアガった」

そう思ってもらいたい。

「読むんじゃなかった」
「時間のムダだった」
「何書いてるか訳わかんなかった」

そう思ってほしくない。

そんな気持ちで、僕のnoteは更新されている。

改めて「文章」の力は凄いと感じる。

「僕の頭で考えていること」を「遠くの誰かに伝えられる」という最強の通信手段だ。

しかも会話と異なり、一方的に伝えられるのだ、

会話だとそれは許されない。一方的な人間は気分が悪いし、それだけで話を聞いてすら、もらえないこともある。

さらに見た目や言い方、トーンや態度なんかも加味されてしまう。良くも悪くも、会話は他の要素に左右されてしまう。

メソポタミア文明の発明した「書字」の力は現代にまで受け継がれている。

この文章を読んでいるあなたの手には、Apple社のスマートフォンが収まっているだろうし、今書いている僕の手にも収まっている。

LINEやインスタ、Twitterにnoteとカタチを変えても、「遠くに伝える」という効果や「記録すら」という機能は何一つ変わらない。

「前向きなことを言わずに、前を向かせたい」と思い、僕はnoteを書き続けているし、Twitterを書いているし、歌を書いてきた。

ときに知らない誰かだったり、同じような痛みを持つひとだったり、はたまた自分自身だったりに力を与えたくて、「書字」を頼ってきた。

文章を書くときに気を付けていることがある。

「書きたいように書く。それでも書きたいことを書かない」だ。

意味不明だと思う。

ただ、この気持ちを忘れると「読んで良かった」と思ってもらえないのだ。

自分のやりたいことをやる。それでも独りよがりにならないようにしたい。

文章の持つ「一方的」という特徴の強さを知っている分、「独りよがり」にならないようにいたいのだ。

読んでもらいたい文章などはない。

でも「読んで良かった」と言ってもらえるものを書きたいのだ。

今日も僕はあなたに数分頂いたことになる。この文章に向き合ってもらった。

一人でこの記事を読まれたと思う。

「僕の考え」と「あなた」というサシの伝達だ。

大勢の飲み会なんかよりも、濃い時間になった。

ありがとう。

この文章は「読んで良かった」だろうか。

気がかりなのは日々そこだけだったりする。

これをまたあしたも繰り返していくのだ。






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