古本屋でバイトしていた話

その古本屋は吹けば飛ぶような小ささで、十名ほどの客も入れない狭さだった。

僕はこの店で週に一度、店番を任されていた。朝から晩まで拘束されるが、一人で店を開けて、店仕舞いするのは煩わしい人間関係も無く、気に入っていた。

店は駅から離れた小道にあり、人通りも少なかった。

オーナーにとっては悩みの種だったみたいだが、よそよそしい大通りよりも、僕はこのうらぶれた小道が好きだった。

その日も脚の安定しないガタガタの丸椅子に座りながら、僕は値札シールを生産し続けていた。

ハンドラベラーというらしいその機械は、グリップを握ると、値段が印字されたシールを作ることができる。

そのシールをカウンターに積んである『少年マガジン』に貼り付けていくだけの、なんの才能も情熱もいらない作業だ。

グラビアを飾る小倉優子の顔面目掛けて、「¥100」と印刷されたシールを貼っていく。次々と貼っていく。拳銃のトリガーを弾くようにグリップを握るたび、ガシャンガシャンと音が響く。
店内には僕以外誰もいなく、本屋というより、まるでシール工場みたいだった。何も変わらない、いつも通りの日曜だった。

値札を貼られた『マガジン』はさっきまでと違って、少しだけ商品らしくなったように見えた。

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不要の烙印を押されて、ここに売り飛ばされた雑誌達は店員によって、「¥100」という価値を与えられ、もう一度人の手に渡ることを目指していく。僕は〈雑誌に意思の宿る話があったら、涙無しでは読めないな〉などと考えながら、マガジンをパラパラめくった。

『はじめの一歩』だけ読めればいいのだが、サッカー漫画の新連載が始まっていた。斜め読みしてみると、それなりに面白かった。もう一度最初から読むか、とページを戻したその時だった。店のドアが開き、男が入ってきた。

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「おぉ、マガジンめっちゃ入ってるやん」

「平原さん。おつかれさまです」

「足りへん分、持ってきたで」

平原は店の常連だ。肩まで伸びた髪に、不揃いの無精髭は、お世辞にも清潔感があるとは言えない。

年齢は聞いていないが、おじさんと呼ぶには若く、友達と呼ぶには老けすぎていた。

「今日もありがとうございます」

「うし」と言い、平原はリュックサックをカウンターにドスッと置いた。その中から『名探偵コナン』や『ONE PIECE』、『エンジェルハート』、など、十数冊のコミックを取り出していく。タイトルはメガヒット作品ばかりだが、その巻数は五、十七、三十二など歯切れの悪いものばかりだった。

「ホンマにどうやって仕入れてんすか」

「いろいろツテがあんねん」

「凄すぎますよ」

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古本屋の悩みの一つに、狙った在庫の仕入れがある。
本が一冊売れると、その本の在庫はゼロになってしまうことが多い。

コミックなどは巻数ものがほとんどなので、すぐに歯抜けのような品揃えになってしまうのだ。

その抜けた巻数をいつも平原は持ってきてくれた。本来ならば、一冊あたり数十円の買取価格のアイテムなのだが、背に腹は変えられないということで、三倍近い値段で買い取っていた。

そしてその仕入れルートは謎に包まれていた。ページはほどほどに日焼けしたものばかりで、盗品とも思えなかった。

僕が電卓を叩いて合計価格を出している間、平原は商品を見てはメモをとっていた。

「『水商の十』『一歩』の四十一、『NARUTO』の三十四・・・・・・」

平原はブツブツ独り言を言いながら、仕入れるべき商品を指差しながら、メモしている。この歯抜け棚に、詰めるべき巻数を調べているのだ。

僕は平原に向かって、少し大きい声で「『DEATH NOTE』の七から十っていけます? 」と言った。

店内にある『DEATH NOTE』は一巻から六巻と、最新の十一巻しか並んでいなかった。再来月には最終巻である十二巻が出るらしい。

「『DEATH NOTE』、連載終わったとこやからな」

「全巻コミックスになると、まとめて買う人、増えそうですよね」

「バラかセットかどっちで売んねん」

「迷いますね・・・・・・」

全巻セットでパッケージして売っている作品がいくつかある。

こうすると歯抜け在庫のリスクは減るし、一気に買ってくれる人も増えるのだ。ただ、もちろんバラ売りのストックが減るのだから、痛し痒しだ。

「決断を求められる場面が、人生にはいきなり訪れるからなぁ」

「別に、ゆっくり悩みますよ。どっちでも売れると思うし・・・・・・」

「悩むってのはあかん。ゆっくり『考え』なあかんねん」

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「考え」を強調して、平原は言った。
自分の台詞に満足したのか、ニヤニヤしながら「とりあえず仕入れとくわ。ていうか映画化もするらしいな」と言った。

「なんかそれ、リューク、ショボそうすね」

僕は吐き捨てるように言った。

合計価格が出た。二千百円だったので、平原に二千円札と百円玉を一枚渡す。

「買い取り帳、お願いします」

「おう」

僕は『買い取り帳』と書かれた大学ノートを引き出しから取り出して、平原に渡す。

古本を買い取ると、住所、氏名、電話番号を書いてもらう必要がある。
平原はサラサラと記入した後、財布のマジックテープをビリビリやって、丁寧にお金をしまった。

財布をポケットにしまったところで、目線を僕が読みかけていた『マガジン』に向けた。

「お、『エリアの騎士』やん。おもろいよな、それ」

「まだ始まったばっかやけど、おもろいすね。絵、うまいし」

「そういや、昨日、サッカー見てたらバルサのフォワード変わっとったわ」

「外国のサッカーとか見るんすね」

「男子やからな。ロナウジーニョとか見てるだけでアガるやんけ」

別にサッカーを見る女子もいると思うのだが、僕は気にしないことにした。

ついでに駄目中年丸出しの平原自身を「男子」にカテゴライズするのも抵抗があったが、気にしないようにした。

「ロナウジーニョ好きなんすね」

「ロナウジーニョ嫌いなやつなんて、この世におらんやろ」

ロナウジーニョに抜き去られて、悔しそうに見つめる相手チームのディフェンダーが平原には見えていないのだろうか。それにあれだけ有名なアスリートならば、世界中に敵もいると思うのだが。

「メッシってのが出てたわ。しかも点取りよった。おまけに平井、お前と同い年やで」

「変な名前。でも十九歳でロナウジーニョとサッカーしてるんすか」

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ケラケラ笑いながら、「お前はマガジンにシール叩き込んで、メッシはゴールにボール叩き込んでるわけか」と平原は言った。

僕は自分で眉間にシワが寄るのが分かった。

「そのメッシもすぐ消えるでしょ」

「まぁな。たぶん通じんやろ。背も小さかったわ」

「古本屋が一番すよ」

「たしかにな」

クックッと口の中から笑い声が漏れないように笑いながら、平原はドアを開けた。

「おつかれさまでした」

「ほんじゃ、またな」

平原が居なくなって、急にしんとしてしまった。

僕はカウンターに『マガジン』が積みっぱなしだったことに気がついた。

丸椅子から立ち上がって、外にある雑誌コーナーへ並べに行く。七冊のマガジンを抱えたまま、右肩でドアを開けた。

外に出ると光が粉のように降ってきた。その年の初夏はずっと晴れていて、毎日が毎日の続きみたいだった。

僕は棚に突き刺すように『マガジン』を並べていった。雑誌が埋まっていくと、薄汚れたクリーム色の棚が、みるみるうちにカラフルに染まる。

「これ、まだ売れるか?」

掠れた声がしたので振り返ると、身なりの汚い、一目でホームレスと分かる男が立っていた。

「村中さん。おつかれさまです」

「なんも別に疲れてへんけどな」

そう言って、村中はチェック柄のバッグを地面に置いた。

カバンは百円均一ショップで売られているものだ。ここら一帯のホームレス達は、みんなこれを持っていた。

村中は乱暴に右手をカバンに突っ込み、三冊の『少年マガジン』と二冊の『ヤングサンデー』を取り出し、僕に突き出した。

世の中や人生は、ちっとも素晴らしくないと決めつけているような目つきだった。
僕は村中から雑誌を受け取って、パラパラとめくった。

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「状態良いすね。梅田のですか?」

「全部梅田のんや」

神戸線や京都線に乗れば、この町から梅田駅までは一駅で行ける。

彼らホームレスは大阪最大のターミナルである梅田まで「遠征」し、雑誌を調達していた。梅田は終着駅なので、車内やゴミ箱誌を破棄する乗客が多かったようだ。

「マガジン三冊は六十円やけど、ヤンサンは無理っすね・・・・・・」

「なんでやねん! わざわざ梅田まで行ってきてんぞ! そんなら電車賃払えや! 」

「いや、無理ですし、ていうかそもそもキセルじゃないっすか・・・・・・」

今日は日曜だ。
月曜発売の『ヤングサンデー』は明日、最新号が出る。どうやっても買い取れないのだ。その日発売の雑誌は六十円、そこから一日経つと十円安くなるのが、買い取り相場だった。

村中は「もうそれでええわ! 早よせぇ! 」と目を見開いて怒鳴った。

僕はため息をグッとこらえて、「買い取り帳だけお願いします」と小声で伝えた。

店内に戻ると、村中も後ろから着いてきた。

引き出しから買い取り帳を取り出して、村中に差し出す。舌打ちをされて、乱暴に引ったくられた。いつものことだった。

僕はガリガリと名前を書く村中の手を眺めていた。両手の爪という爪には、黒い汚れが染み込んでいる。

厳しい生活を送る人間の手そのものだった。

その左手には小指が無い。傷口は明らかに切除されたことが分かる、後天的な形状だった。本人から聞いたわけではないが、村中はかつて暴力団の幹部だったそうだ。

村中は住所と電話番号の記入欄に、いつも斜線を引く。空欄では気が済まないのか、住所欄と電話番号欄を、今日も袈裟斬りの斜線で切り落としている。

「人生はな」

村中は線を引きながら、急に落ち着いた声を出した。

「人生は、思う通りにならんけどな。人間は思う通りに生きなあかんねん」

僕に言っているのか、自分自身に言っているのか分からなかったが、「はい」と返事をした。なんとなく、本当に心から素直に出た返事だった。

ガラスをふと見ると、立っている僕と線を引く村中が淡く映っていた。

乞食と隣り合わせた自分には、大して違和感を覚えなかった。
レジを開けて、小銭を取り出す。

「これ、六十円です」

村中は小銭を無言で受け取り、ドアを肩で開けて去っていった。

店はまた急に静かになった。誰か来ては去っていくたびに、まるで事切れたように音が消える。

ほこりの匂いの中、僕はまたガシャガシャと小倉優子に値札を貼り付けていった。

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『ヤングサンデー』の表紙で微笑む堀北真希にもお見舞いした。これが全部売れたら二百四十円の儲けだ。

暇になったので、棚にある小説を読むことにした。手当たり次第なので、特別好みも趣味もない。ただ、適当に手を付けてパラパラと読んでいく。

それにしても小説というのは、改めて凄まじい文字量だ。四百字詰め原稿用紙にすると、果たして何枚分になるのだろう。

その上で文字の海をかき分けて、泳ぎ続けていく小説家を、僕は無条件で尊敬する。

到着すべき島がはるか遠く、豆粒のようにポツンと見えたり、霞んだりするのではないだろうか。不安にならないのだろうか。それとも、そういう次元ではないのだろうか。

もちろんこんな考えが無粋なことも重々分かっている。

しかし、関西人というのはそもそもが無粋なのだ。「粋」というのはやはり江戸の美学だと痛感する。

少なくとも僕が一読者として分かるのは、この「小説」という海原に、心を投じてさえいれば、時計の針は体感、倍速で進んでいくということだ。

ちらほら本を買いに来る客もいたが、「人生は」とか言い出すおかしな客はもう来なかった。流れ作業の本の売買が行われ、その流れの果てに夜が来た。

今日の売り上げを出すため、僕は一枚ずつレシートの数字を足していった。売り上げは六千八百円だった。

レジから今日の給料である一万円を取り出して、ジーンズのポケットに突っ込む。後は店を閉めて、おしまいだ。店はどこを切り取っても、ローテクなシステムだった。

外に出ると、宵の延長にあるような夜だった。暗いのに、少しだけ明るさの可能性を秘めた五月らしい藍色が広がっていた。

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ローソンでおにぎりを三つ買って帰った。

築四十年、木造住宅の二階に上がる。パチモンのコンバースの靴で、階段を踏んづけるたびにカンカン音が鳴る。

ワンルーム五畳ほどの部屋には、ベッドとブラウン管のテレビしか無い。このテレビも後五年でアナログ放送が終わるので、使えなくなるらしい。おにぎりを胃に詰め込んで、すぐに眠った。

目が覚めると、深夜の二時だった。決めていたわけでもないが、予定通りの起床時刻だった。

僕はアコースティックギターを持って外に出た。

この町にやってきたばかりの僕は、深夜になると毎日ストリートライブをしていた。

町の西と東を繋ぐ高架下トンネルで、歌い続けて、もう一ヶ月ほどになる。

最初は億劫でもあったし、僕にも人並みの羞恥心があるので、萎縮もした。

それでも歌い出したのは何故だろう、と階段を降りながら考えた。「悩ま」ずに「考え」てみた。ケースの中でギターがゴトゴト揺れている。

「決断を求められる場面が、人生にはいきなり訪れるからなぁ」

今朝の平原の言葉が脳裏によぎった。

僕程度の「人生の決断」なんて大したことではない。

爆発物処理班の「赤を切るのか? 青を切るのか? 」といったような、大層な話では、決してないのだ。

例えるなら、軽く勇気の量を試されるぐらいのものでしかない。僕にとっては、それが「道で歌う」だっただけだ。

きっと何もしないで時間が過ぎていくことが怖かったのだ。

バンドを組んでいたわけでも、胸を張って「音楽をしている」と言えるわけでもなかった。

そんな僕にとって、路上は唯一の免罪符だったのだ。

一筋の糸のように、ギリギリ音楽と繋がっていることで、「俺は何の後ろ盾もない駄目な人間ではない」と思いこもうとしていたのかもしれない。

在学だけしている、名ばかりの大学生と同じだった。彼らもその実情はニートだったりするではないか。

トンネルに着いた。ケースからギターを取り出して、ピックを当てると弦がジャリンと鳴った。





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