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能力そのままで人生を一撃で一変させる裏ワザ

人間は変わり、成長し続ける

マンガや映画の中で起きる人物の変化を「アーク」と呼ぶ。形態が変形するという意味ではなく、内面的な成長についてだ。

しかし「人物の変化」なんて、実生活ではめったに見られない。だからこそ、観客はそれを見たがるし、エンタメにおいて大切なスパイスなのだろう。

観客は登場人物が模索しながら成長、変化して、何者かになるところを目撃したい。だから足を運ぶし財布の紐をゆるめる。

「アーク」はターニングポイント、切り替わり、変革とも言い換えられる。

僕も人間を長くやってきたが、いろんな年があった。でも、『アークが起きた年』なんて、まだ三度しか味わっていない。

一つ目のアーク

ひとつは上京直後、2011年。バンドを辞めた年だった。

辞めたからといってロクな可能性もなかったけど、続けていたら本当に何の可能性もないという状況だった。
世は東日本大震災にてんやわんやで、東京にいた沢山のバンドたちも解散していった。その裏で9mmやグドモのような新たな扇風の足音が鳴り始めていた。

僕は素人に毛が生えた程度の存在で「辞めてもロクな可能性もない。続けていたら可能性はゼロ」の二択に迫られていた。
結果、QOOLANDというバンドを始めた。可能性はロクなものではなかったが。

二つ目のアーク

可能性がまんざらでもなく、バンドは5年が経過していた。それなりの実力と外面の良さ。そして疲労、数字、飽きから来るギリギリの腐臭を引っさげて、活動は続いていた。
大きな資本による洗浄を信じて、メジャーレーベルに場を移した。毒まんじゅうそのものだったけれど、それを自発的に選び、飲み込むことにした。

三つ目のアーク

2021年。書籍を書き進めさせてもらって発売した。

もともとここnoteで文章を何の気無しに書いたり、ツイッターでふざけていたことがキッカケになった。ただ、それを求めるひとがいることは嬉しかった。

小説など書いたこともないので、最初は苦痛のほうが多かった。ここで書くような散文的なテキストと違い、小説には様式や法則、規則的なものがある。もちろん知らなかった。

ただ、一日中修行していたら、できないことができるようになってきた。才能は無くとも、技や力というやつはそれなりに身につくようにできているらしい。

何かを学ぶとき、基本というものがある。ここで「オレ流なんで…」などと言うと、くだらないものができる。やはり音楽も同様だ。
これがまさか映画になるまで至った。運良く監督が気に入ってくれたことが大きなキッカケだった。図に乗って書いてみるものである。

アークの作り方

三つの年に共通していることがある。自分の意思で決めて行動したことだ。選択の正確性は関係なく、ましてや目標とか希望とか夢なんかじゃない。ただ、やると決めて遂行しただけだ。

身の回りのひとたちに「少しでも素直に、正直になりたい」と思い、考えていることを整頓して、記して、伝えていくことを始めてみた。
「じつはこんなふうに生きてみたい」の規模を、ダチ、ダチのダチ、ファン、世の中、と少しずつ拡大させた。

人間的にも「こんなふうに生きてみたい」の状態に実体が近づくように矯正した。「こんなふうに」を考えたら、僕の実際の状態はかなりひどかった。

理想と現実にはとてつもない乖離があり、鏡に自分を写したと思ったら、変なオバさんが写っていたぐらいの気持ち悪さだった。果てのない矯正が必要だった。

僕の「じつはこんなふうに生きてみたい」と、実体の距離は地球と冥王星ぐらい離れていた。だけど、近づけようとしたら0も1になるし、2にもなる。

「じつはこんなふうに生きてみたかった」に1ミリずつ近づいていった。少しずつアークを呼び込めていく肌感を覚えた。

失敗だらけだったが、つま先は徐々に冥王星の方を向きだした。しかし僕はなぜ「じつはこんなふうに」と言いだしたのだろうか。

アークの生み出し方

ふつうに死にそうになったからだった。そして「死にかけ」は必要不可欠だった。

じつは三つのアークそれぞれの前に、死にかけた。怖い体験なのだが、どこかゾクゾクし、ドーパミンが頭蓋骨から氾濫しそうだった。
すると「このまま死ぬなら少しでも理想を叶えたい」という心理状態に至った。

結局、『死にかける』はどのアークにおいてもキッカケとなった。

僕はそれをもっと利用することにした。「死にかける」というのを偶発イベントにするには、惜しいと思ったのだ。

かと言って、死ぬ直前まで首を吊ったりしていてもキリがない。いつか事故って本当に死ぬだろうし、何となくそれではあの「ドーパミンが頭蓋骨から氾濫!」という境地に至らないように思えた。

そこで設定を設けることにした。たとえば『今年の年末に、もう人生を終わらせる』というものだ。

これまた誤解されたくないから書いておくけど、苛性ソーダを一気飲みするわけでも、青酸カリを部屋にブチまけるわけでも、DIYバンジーするわけでもない。

あくまで仮の話、そう思い込むというシミュレーションだ。

時間がまだまだあるという思い込みを消す

僕はむかしから、「まだまだ時間がある」と考えるガキだった。夏休みの宿題は9月を超えてからやるタイプだ。

「まだまだ時間があるもんね。間に合わなくてもかまわないし」という意識で生きてきたので、矯正するためいろいろな工夫をしてきた。

首吊りセットを常設したり、完全自殺マニュアルを暗記するほど読んだり、睡眠薬とアルコールを混ぜて外で寝たり、工夫の限りを尽くした。

だけど、アークの年はあれらのおふざけよりも、ざらついた本物の肌触りを感じた。

使用したテクニックは『余命』だった。

「真に迫る嘘、ってこれかい!」と自分で自分に感心するほど、「余命」という思い込みをキメこむのだ。

ひとは『終了』を極限までリアルに設定することで、今までにないものが遺せるときがある。

『終わりが決まると、前が向ける』って、みんな多かれ少なかれ、持ち合わせていないだろうか。終末トランスだ。

いつの日からか定期的に『余命』を設ける癖がついた。僕の次の終末は9月14日だ。

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遺書のつもりでnoteを書く

わりと遺書を書くつもりでここnoteも書いている。

「よくそんな書けることあるね」と言われることがあるが、あたりまえだ。もう死ぬのだ、書いておきたいことだらけだ。

「『遺し書き』になるならからね」は大きい。

大事な人たちにも、感謝する日が増えた。別れが透けて見えたのだろうか。

『こやつとも、もう今年いっぱい』と思うとありがたさしか生まれない。みんな死ぬつもりで生きればいいのにとさえ思う。

くどいようだが、本当に暗い話では無いのだ。

何か遺したくなるのが普通

仮にドラマのように「おまえ残り、半年の命な」と言われたら、何か遺したくなるのが人情だろう。

『平井拓郎、ついに今年終了(⌒▽⌒)』を設定したことで、僕は毎日を雑にわしづかみしなくなった。

自分が死ぬまでに人生にやり残したことが、すいぶんあることに気付いた。

いざ終わりが決まると、彼に伝えたいことだらけだったし、彼女に言ってないことだらけだった。未練がどんどん出てきた。

「素直になれない」とか言ってる場合じゃなくなった。やり残したことも、山ほどあった。

反対に、それまで気にしていた小事は、どうでもよくなった。恥を気にするのも馬鹿らしくなった。

前までなら我慢ならないことや、不安や心配事もアホらしく思えた。

つらいとか苦しいとかが飛んできたときも「まぁでも、今年いっぱいだしなぁ」の一発でゆるんだ。

将来の不安も消え失せた。そもそも無いのだから当然だ。急に時間が足りない気もした。

焦りはしなかったけど、馬鹿をしているほど、のんびりもできなかった。無駄なことをいっぱい捨てたし、辞めた。無駄だらけだった。

本当に遺しておきたい歌や言葉は、きっとまだ書いていないものの中にあると思ったし、誰かの脳裏に焼き付けておきたいライブも、まだ演ったことの無いものの中にあると思った。

二回目のアークのときは、「生きてるうちに、それをやらなきゃいけない」という意思が強かった。

メジャーに行く選択肢以外に生き延びる道がなかった。バンドとしては間違いなく寿命は縮めたけれど、時間がないので、しかたなかった。

「じっくりやりなさい」的なアドバイスも、いくつか頂いたがとてもそんな気になれなかった。現状の維持、保守的な話もされたけど、響かなかった。

僕はもう、すっかり『設定』を信じていて、本当に自分が終わる気がしていた。「もう終わるんだから、とにかく今」という感覚だった。

気づいたら僕は『自分を後生大事に抱えこんで、我が身可愛く、身動き取れません状態』を完全に手放していた。

僕もあなたもアークがいる

コロナ爆弾が投下されたことによって、微動だにできない日々がやってきた。将来における不安や心配事が足かせになって、動けないひとが増えた。

でも、「あと何日で終わり」としてしまうと、本当に楽になる。行きたいところに行ける。感染は怖いが、時間がないと考えると動きたくもある。

自分を不自由にするような将来なら、将来なんて存在しない前提で動くのもアリだ。未来なんて見なければ、今日が最初で最後の瞬間だ。

2011,2016,2021年はズズッと人生が動く音がした。

「自分で決めて行動する」しか人生を動かす方法は無いらしい。自分が腑に落ちるやり方でやるしかない。

その状態が、もはや一番の安定なのかもしれない。それは公務員や大企業に勤める、何倍もの安定感だ。

案外同族がいる

最近、思う。僕と同族のひともいるなぁと。

そのひとたちのために、ここに何か書いたり、歌を遺したりすることは、意味があるのかもなぁと。

別に声をかけてくれなくてもいい。なんとなく気配は感じている。こちらから声を飛ばしておくから、届くなら嬉しい。

『最高の環境』なんてものはないし『完璧な状況』もない。

自分に寸分違わず合う、ジャストサイズの服なんてひとつも無い。どこかで微調整して、折り合いをつけるしかないらしい。袖をまくったり、重ね着したり、すそ上げしたりして、なんとか着ていくしかない。

僕の『死設定』は袖をまくるための、ひとつの方法だった。『設定』のせいで、その先がぼんやりしてしまうことがある。9月14日以降どうすればいいのか分からないのだ。

書籍が発売されて、ひとつ峠を越えてしまった感じがある。
この毎日の蛇足感と自分にとって自分が不要な感覚は、どういじくっても消せない感じがする。まぁ生きてさえいればなんとかなるとは思うのだが。



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