シリカ!

カミングコーベのくだりで二代目実行委員長と、シリカ林との対談、からのフェニックス途中下車、からの二人打ち上げスリップ。

品川に送るまでのあいだだ。なんだかんだ初めてサシで飲んだ。あんなに通じ合ったのに不思議なものだ。

シリカの「日本人」が無かったら、僕は絶対にもう一度音楽をやっていなかった。ていうか勢いで首を吊っていた可能性が高い。

スリップは悲しいが、飲まないのは無理であった。流石に。「ここは飲みたい!」と細胞が咆哮していた。

恥ずい。酔っ払わないと話せない話がありすぎた。だけど言えないことや、書けないことで人生は構成されているではないか。あなたもそうだと思う。

それにしてもこれまでいったい、どれほどの酒を飲んで来たのだろうか。

風呂一杯分では足りないに決まっているが、プール一杯分ぐらいか?と言われたら大げさな気もする。いや、それぐらいあるのかもしれない。

そのプールを泳いで泳いで、溺死しそうになった結果、断たないとアレになってしまった。

医者に「『減らす』ってのはどうすか?」と聞いたこともあるが、「できるもんならやってみろ」としか言われなかった。

そうなのだ。一杯飲んだらいくところまでいってしまうのだ。プールの波打ち際まで行くことはあっても、浸かりたくはない。怖いのだ。

「スリップを繰り返して回復する!そういうもん!」と医学的には言われているが、こんなにスリップすると、日に日に自信が欠乏していく。それなりに壊れるのは怖い。

僕の飲酒人生は十四ぐらいからだ。安酒ばかり飲んでいた。学校生活の苦しみから逃れるためにアルコールを覚えてしまったが、今思えばかわいいものだった。大人になりたいという背伸びも混じっていたからだ。

金も無いので、酒だけを飲む。つまみなどいらない。アルコールだけを摂るのが男らしいと思っていた。
るろうに剣心の比古清十郎もそうだが、矢吹丈のヤケ酒をあおるシーンもそうだ。何かをバクバク食いながら飲むと、途端にサラリーマンっぽくなるではないか。

しかしつまみを食わないスタイルは、かなり身体に負担がかかった。大阪の十三に住んでいた頃も横丁で日本酒だけ頼んでいた。一合で百二十円ほどだった。工業用アルコールのような毒を延々とひっくり返るまで飲んでいた。

ワガママな話だが「飲み会」は嫌いだった。とにかく独りで飲むのがいいのだ。太宰治もカートコバーンも「飲み会」はしてなさそうではないか。

独りでカウンターで飲んでいると、たまに隣の中年が、フラフラの僕に話しかけてくる。大阪の横丁の特色かもしれない。だが、僕は話がしたいから酒を飲むのではない。自分の中のグルグルした言葉と向き合いたいから、意思を失いたいから、理性を殺したいから、酔っぱらうことをセレクトしているのだ。

それでもヘラヘラと引きつった笑いで対応した。ほどほどに相手をすると、酔っ払いのおっさんが支払いをもってくれるから付き合った。

こんな酒が美味いはずがない。
自分を殺して、ただ脳だけ麻痺していく。

適当なところで「あした休みなんで」と冗談でも言って席を立つ。「あした仕事なんで。じゃないんかい(笑)」ぐらいの別れ際で店を去る。印象がいい。また奢ってくれる可能性を残しておくのだ。

そしてまた僕は独りで別の店に入る。

ようやく自分の酒を飲むのだ。自らを殺して飲んでいた怒りをほどいていく。

この「自分を殺して飲んでからの、自分の酒」のせいで爆発的な酒量になった。付き合いの酒と独り酒はまったく別腹なのだ。

訳の分からないオッサンに奢られた情けなさと悔しさで、独り、立ち飲み屋でボロボロ泣いた夜が幾度もある。

起きると、翌日の二日酔いがキツいので、アーリータイムスをすぐさま飲む。

社会のいろんな方向から、ジャンジャカ電話がかかってきていた。Vodafoneの携帯が壊れそうだった。出勤だの約束だの催促だのが全部未達だったからだ。しかしもう四六時中酔いすぎて、対応する能力も無かった。

これは2015年にも訪れた。当時金を出してくれていた会社の社長の車に乗っていたとき、「ちょっとコンビニ寄っていいすか?」と停めさせて、ビールを買う始末だった。連続飲酒が止まらないのである。

治療の末、「これからはお酒を『楽しみ』にすることは諦めてください」と医師に言われた。

今もそうだ。どうなるんだ。どうにかなるか。死にたくはない。死なないか。まだ今は死ぬわけにもいかないし。



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