「やればできる」
『嫌われる勇気』という本がある。発売からもうずいぶん経つが、ドラマ化になるほどの大ヒット作だ。
心理学の本がメディアミックスされまくるというのは初めてではないだろうか。
著者の古賀先生はnoteを何百日も連続で投稿する文豪であり、僕も大好きなライターだ。
その代表作となった『嫌われる勇気』はたまに読み返す。歴史に残る名著だと思う。
その中でも最も刺さったフレーズがある。
やらないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたいのです。
目からウロコというか、その通りである。
やる前から「できない」と言ってしまうことがたしかにある。やりたくないなら仕方ないが、その一言が人生の大きな可能性をゴリゴリすり潰すときがあるのだ。
しかし「できない」という逃げにもメリットがある。それが「やればできる」という可能性を残せることだ。
人生はこの可能性を消していくことだ。敗北はつらいが、次の跳ねるタネになったりする。思い通りにならないこともこれまた現実だ。
残酷だが「やってもできなかった」という事例は存在する。
僕が前やっていたQOOLANDというバンドは「武道館をやる」と言っていたが、まさしく「やってもできなかった」のだ。
しかし全力でやってみた結果だ。これはしかたない。仮説が否定されるのは何も悪いことだけでもない。ひとつの「やればできる」という可能性はゼロになった。
でもそのおかげで、僕らそれぞれの人生は散り散りになれた。一緒にいても意味がない関係は、いつまでも一緒にはいられないものだ。
男同士で「これを目指す」と言って集まったのだから、可能性が無くなってまで一緒にいられるほど子どもでもない。
逆に言えば、それでも一緒にい続けたのであれば、それは「幼い」と言わざるを得ない。熱くてピュアな三十路は良くても、幼い三十路は見るに耐えない。
「やってもできなかったこと」があったからこそ、次の「やってみる」が生まれている。またひとつ「やればできる」の可能性を試している。
「若者には可能性がある!」とかいうおっさんがいるが、そんなもの当たり前だ。挑戦していないのだから、ある。というだけだ。そして可能性なんて大したものでもない。若けりゃ全員にある。全員持っているものなんて何の価値もない。
だから、ウダウダ悩んでいることがあるならば、さっさとやってしまうべきだ。「やればできる」なんて可能性は一銭の価値もないのだから。
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