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全員は大人になれない

大人になりたくて仕方なかった。
時を経たらどんな悪党でもボンクラでも到達できる頂であり、いずれは世襲しならなくてはいけないもの。宿命なのに全力で目指していたという笑える話だ。

そんなギャグに満ちた少年時代を振り返ると、じつに矛盾めいた思考を持っていたことが分かる。

この願望は「大人に踏まれている悔しさ」が少なからず原動力になっているからだ。敵国との戦争のため、相手方と同等の軍事力を目指している。

自分自身が軽蔑している存在を目指している、と考えると愚かである。完全に我を失っていて、手段と目的を履き違えたパラドックスが生じている。

なりたいなりたいと喚いているが、「大人」というものは、時にならないといけないものにもなる。こうなると途端に「なりたくないもの」に変貌する。

たとえば、誰しも「大人になりなさい」という説教をくらったことがあるだろう。

「我慢して、世の摂理を迎え入れ、感情を抑え込めよ」という意味合いで使われる文言だ。
「嗚呼、散々言われてきたな」と苦味の含有量を30%味わいながら脳裏を過ぎる。
「脳裏を」などと回想じみたが、今もたまに言われている始末だ。全然今も週に何度か言われている。

大人になれというか、僕は現役バリバリ大人の大人なので、これ以上を目指すと難しい。おそらく一生叶えられないのだろう。

結局、「大人になりたくて仕方なかった」という少年時代の夢は未だ叶っていない。時を経たとしても辿りつけない人間もいるということだ。

しかし大人というのは「選ぶ」ものなのではと、ここのところ思う。

年齢を重ね、人生が進んでいくときに、「大人になるルート」と「大人にならないルート」があるのだ。もちろん後者を選ぶと、大変説教をくらうことになる。

めでたく日々が過ぎていき、僕は未だ後者のレールの上にいる。

ただ、大人になっている部分も少々見え隠れする。ミュージシャンに訪れる一定の議題を例にしてみる。

「使い慣れない言葉で歌詞を書くことは、果たして大人なのか」という二股の道がある。

レーベル、事務所、プロデューサー、メンバー、時勢、冷めた自分。これら様々な要因によって、作品の質を丸くトリートメントすることがある。今まで何十回も目の前に立ちはだかった。

大人じゃないどころか赤子並に騒ぎ立てて反発を繰り返した。

では今はどうか、と質されるとラクなものである。

「使い慣れない言葉で歌詞を書くこと苦痛か」と問われたら、もっと苦しくて痛いことはいくらでもあるし、「魂を売っているか」と煽られたらその慣用句を扱うセンスとはずいぶん前に絶交しているからだ。

これを「大人になる!」と捉えるかはひとそれぞれなのだろうが、昔は手にしていなかった「使い慣れない言葉で歌詞を書くこと」という技術が身についているのが実情だ。

これは歌詞だろうがメロディだろうが文章だろうが絵だろうが演技だろうが、普通の仕事だろうが、部活だろうが、学校生活だろうが、日々の暮らしだろうが同質なものだ。

いったん引きに見えるが、案外押していたりする。

【大人になること=世の中との調和をとること】というA=Bが定説化されているが、Aを別のものに手にする手法もあるいうことだ。

ここでは「使い慣れない言葉で歌詞を書くことは大人になることだ。やーいやーいこの大人!まったく牙が抜けて丸くなりましたねぇ」という定説を用いてくる声をすりつぶすことに当たる。

加害快楽に溺れた敵対的外的要因をブチ殺すことで、調和を手に入れることができる。

幼児退行がもたらす成果もあるのだ。それは案外、妥協的で和平を伴うように見えたり、皮を剥くと破壊力を秘めたものだったりする。


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