好きなバンドに力こぶを作って曲描いてほしくない

好きなアーティスト、バンド、作家がいる。

新作は楽しみだし、旧作は何度聴いても感動する。僕もいろんな「好きなもの」があるが、わりと共通しているのが、「本気丸出しじゃない作品」が好きということだ。

もしかしたら自分の中の「ファン」がうるさいのかもしれない。「力こぶを作って書いたものよりも、ちょっと思ったことをさらりと書いてほしい」という、うっとおしい願いにも聞こえる。

手抜きしてほしいとかではないのだが、「大傑作狙いでない気がするもの」が好きなのだ。

変に肩に力が入っていなくて、重たくない。だけど作家元来の才能が炸裂しているもの、とでも言えばいいのだろうか。それはきっと書くときだけ、力んでも到底ひねりだせない性質のもので、「これを作るために、このひとは、幼い頃からとても大きなものを捨ててきたんだろうな」とさえ思わせる根源的なオリジナリティなので、もはや体質に近い。

ビートルズだとYESTERDAYもそうなんじゃないだろうか。

最もカバーされた曲としてギネスにも載っている名曲だけど、ポールがあれを書くとき、「やってやるぜ…!俺は…このバラードで世界中のファンを馬鹿みたいにうならせてやんぜ!」などと取り組んだようにはどうしても思えない。

あの2:05に詰め込まれた静かな激情は、今聴いても胸が震える。美しいのに「少し野蛮」なのがいい。

ひとによって受ける印象は違うだろうけど、強靭に聴こえるのだ。あの時代の空気と水分をいっぱい含んでいるのも分かる。「嗚呼!これぞあの60年代!」なんて野暮なものではないし、僕はそもそも生まれていないから懐かしさもない。だけど、やはりこれは「自然さ」がもたらした効能じゃないだろうか。

話変わるが、作り手は「狙う」ときがある。もちろん「当てたい」からだ。当然力こぶはできる。

悪いことでもないし、こすいことでもない。

ただ、この「狙い」という次元から『的(まと)』は見えないのも事実だ。二次元の紙上のキャラがいくら上を見上げても、読者には触ることができないのと同じだ。

稀に超能力があり、上の次元が見えるひともいるのだろうが、これは目を凝らしているうちに、おかしくなって幻覚が見えているだけの場合がほとんどだ。

「狙い」と書くと不毛に感じるけれど、『マーケティング』なんて言葉にしてしまうと、確率論になってしまい毛だらけにしか思えなくなる。

賢いひとたちの声が耳に飛びこんではくる。本当はとてもセンシティブな話題だと僕は思うのだけれど、そう感じているひとは少数派な気がする。

「その作品が、もっと言うなら本人自体が、たくさんのひとに大切にされていても、違和感がないほど磨かれているかどうかじゃない?」などと言ってもみたいが、『あのな!アナリティクスがだな!』という呪文一発で霧散しそうだから黙っている。

それにこれは事実ではなくて、単なる僕の祈りの話なので、きっとお門違いなのだろう。作品を書き上げて、祈っているだけも作品が哀れだから難しいところである。

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