嗚呼自分!自分!

なんだかクスリのことばかり書いている。

目下、マイブームがアルコールの断絶なのだから、仕方ない。
勝手に書いているだけだ。読みたいひとが読めばいい。しかし、それにしても意外にも多くのひとが読んでいるのも事実。あざす。緊張感持つ。まぁ読み物として面白くありたい。

そうこうしながらも音楽の仕事を進めてもいる。ちゃんと社会と調和しているのだ。任せてほしい。

公開は来月だろうか。出演映像作品を作るのは二年ぶりだ。「なんだか作ろうかなぁ」と思ったのだ。思い返すと、これも「躁転」なのだろうか。発作的に「嗚呼、作るか」と動くことにした。

躁鬱持ちの僕は、むかしから躁転したタイミングで、アレコレと仕事や予定を決めてしまうことが多い。あしたも対談の仕事がある。これもその流れを汲んでいる。

躁鬱のひとは分かるかもしれないが、案外「躁」の方が怖いものだ。

鬱のバイオリズムのときは何もする気力がわかないからだ。安心である。自殺すらできないのだ。

意外にも躁のときにこそ、人間は勢いで死んでしまう。

アディオス現世!というテンションで逝ってしまうのだ。恐ろしい。

もちろん悲劇にならないように抗うつ剤で抑えこむ。鬱を抑えれば、躁にもある程度のリミッターがかかるみたいだ。あまり激しくは上がり下がりしない。

「薬でちゃんと抑えているんだ!」と説明すると「薬には依存症や副作用がある!良くない!」と騒ぐひとがいるが、騒ぎすぎなケースが多い。
リスクなんて電車や車だってあるではないか。ていうか砂糖や塩にだってある。

薬剤否定軍の唱える理屈の一つに「踏み石理論」なるものがある。

【マリファナを吸った人間はより強いドラッグ、コカイン、ヘロインなどへ走る】というものだ。

こう唱えるひとが多い。しかしこれは教養が無いことを露呈している。

なぜならアメリカのカーター時代の膨大なリサーチによって否定されたものだからだ。

しかし考えてみると当たり前だろう。ビールを一度飲んだ人間が、ウイスキー、ウォッカ、テキーラへと飛び石していく確率は非常に低いではないか。

僕のようなアル中になる確率は、とても低いのである。

もはや暴力団の資金源になっているドラッグは「国が売ればいいのに」と思ってしまう。国など、どのみち公営ギャンブルをしているのだから、汚れた手ではないか。

タバコの百害を売り飛ばすよりも、よほどマリファナを売った方がいい。

みんなニコニコして会社を休み、国力は低下するかもしれない。GNPが低下して、民力も衰えるのかもしれない。

しかし「それの何がいけないのか」と思わないでもない。もうこの国の壮年期は過ぎている。

「飲みたい飲みたい!」が苛烈すると哲学に走らざるを得ない。

何故人間はかくもドラッグに、アルコールに惹かれるのか。そんなことばかり考えてしまう。

社会学者や心理学者の研究は進んでいる。それを台無しにする話だが、結局、「それが気持ちいいからだ。だからみんなラリるのだ」という位置に帰結してしまう。

麻痺と人生は、そういう位相にあるのだ。馬鹿な答えだが、そうとしか言いようがない。でも「何故気持ちいいのか」と分析することはできる。

たとえばアルコールを例にとってみる。

酒を飲む人々を見ていると、というよりも自分の有り様を見ていて如実にわかるのだが、あれは口唇期性欲への退行現象である。

つねに唇にグラスなり、缶なりを運んでいる。幼児退行以外の何物でもない。

もちろん酒が確実に効くドラッグだから、ひとは付加的に幼児的「なめる」儀式を酔いの中で反復する。

そしてその後には昏倒のような眠りがくる。

音楽をやっているからだろうか。すべてのドラッグは「自失」への希求ではないかと今は考えている。

公園で三つか四つの子供たちが、くるくるくるくると回っている。回り終わって、目を回してフラフラしている。

あれは倒れそうなぐらいのめまい、血の逆行が気持ちいいからだ。完全にドラッグの根源だ。

ひとはそうして「自失したい」のである。くるくる遊びの酩酊感は睡眠薬、シンナー、アルコールと根源的には同じなのだ。

シャブやライブ、筋トレや長時間のジョギング、格闘技、スポーツは自分を自分ならざるハイスピードな高揚に持っていく行為だ。

「アゲアゲ」というのは自失なのだ。

何故僕たちは自らを失くしたいのだろう。

またまた戻るが「気持ちいいから」だ。堂々巡りに戻ってきてしまうのだ。

人間が快楽原則に則っている以上、聖者もジャンキーも同じ舟に乗っていると言える。禁を犯さず、何十年と修行し、瞑想すること、これもまたドラッグ的である。

しかし、断酒するのだ!と頑張ってしまう自分を思うと、あることに気付く。

それは「俺は大ジャンキーでもなければ、シラフでもない」という何とも中途半端な存在だということだ。

自失はしたい。でも自分を完全に諦めたくもない。それでもシラフではいられない。なんて中途半端なのだ、と。

それでも、日々を重ねて、自分の周りに影響していたい。力が及ぶ限りは守りたいし、与えたい。その中で少しぐらいは満たされたい。それが自分なのだろう。

これもまた自失なのか。

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