人間は何かに依存することで、欠落した部分を埋め続けていくのだ。
「人間は元々球体をした生き物で、それが半分に断ち割られて今の姿になった。だから自分に欠けている片方を探しているのだ」とプラトンが言っている。
多かれ少なかれサピエンスは何かに依存している。
僕の場合はアルコールだったり、睡眠薬だったり抗うつ剤だったりなわけだが、この「依存する」という行為は、自分の欠けている部分を埋めようとする行為なのだと思う。
欠けているところがあれば埋めるのは当然で、人間は何かに依存することで、欠落した部分を埋め続けていくのだ。
ギャンブルや恋愛、子育てに執念を燃やすのも一種の依存だ。
仕事、学問、貯金とそれを取り上げられたらパニックになる対象をみんな持っている。
こうなると、開き直るのもいいのではないか。
浮気をやめられない人間は絶対にやめられないし、DVをやめられない人間も絶対にやめられない。
僕も躁うつと死ぬまで付き合うしかないと思っている。これは諦めや覚悟とは少し違う。
人間は無数にある選択肢の中で、自分が選べる選択肢だけを選んで人生を生きている。
飲まずにはいられないから連続飲酒を選んだのだ。あの地点では飲まないで済む方法は、どうしても選択できなかったのだ。
「あのとき飲まなければ」と後悔しても何の意味もない。「飲まない」という選択肢がそもそもなかったのだから。
よって定期的に巻き起こり、自殺念慮に追い込んでくるうつ病も何かの意味、というか因果関係があるのだ。
ただ、僕はうつ病と闘った経験があるので自殺までいくことはない。
シャブ中やアル中の治療に「よし打とう。でも今日はやめてあしたにしておこう」や「よし飲もう。でも今日はやめてあしたにしておこう」というものがある。
「よし自殺しよう。でも今日はやめてあしたにしておこう」というわけだ。
何事も経験だ。
こう考えると悲壮感も漂わない。
昨日、「キャッチボール行きましょう」と部下が外に連れ出してくれた。
「うつだけどいいよ!」
「明るいうつ!」
などというやりとりがあった。今度は釣りに連れて行ってくれるらしい。気は和らぐ。
うつが発症すると、起きているか寝ているかの意識モーローとした時間が長い。この「モーロー時間」に頭がペシャンコにされるイメージや「今日こそ死ぬぞ」という謎の声が頭で鳴りまくるようになる。
放置しておくと本当に死んでしまいそうになるので、「うるさいうるさい!」と抗うようになる。
もう、これにヘトヘトになってしまうのだ。そしてまた泥のように眠ってしまう。こんなときこそ「あしたにしよう」だ。
もちろん病はつらい。ただつらさにはキリが無い。自分だけがひどい目にあっているわけでもない。
それに薬さえあれば屁でもないほどラクになる。
マイナスの思考では抜け出るのは難しい。「いずれ治る。くたばれうつ病」と口先だけでも言っておくのだ。
こう考えると妙にラクになる。
昨日はキャッチボールの後に久しぶりに髙木と再会した。実に二年と一ヶ月ぶりであった。
いきなりすっとんきょうな行動を起こすことで、できる話もある。捨てたものではない。
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