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今までの新海誠作品を観直したよ

新海誠監督の最新作、『すずめの戸締まり』が明日から公開される。それに備えて今まで観たことがなかった『君の名は。』以前の新海誠作品を見直してみた。また手に入る新海誠論的な本もいくつか読んでみた。以下はそれを踏まえた各作品の感想。

読んだ本

↑主にアニメーション史を軸に置きながら新海誠の位置づけを論じた本。

↑『ほしのこえ』から『すずめの戸締り』(小説の内容)まで今までの新海誠作品をたどりながら「美化」や「宗教」など民俗学的な観点から新海誠を論じた本。

↑初期作品から『天気の子』まで作品の内容と新海誠の特徴を網羅的に論じた本。

『ほしのこえ』(2002)

新海誠がほぼ単独で制作した短編フルデジタルアニメーション。
セカイ系の代表的な作品として語られることの多い作品。主人公の乗るロボットのコックピット内の造形はもろにエヴァの影響を感じた。
ケータイでのメールのやりとりという「つながり」・「コミュニケーション」の問題とそれに伴う「すれ違い」・「断絶」といったモチーフは当時の空気感に技術的にも時代的にもマッチしていたのだと思う。
よく背景描写の精密さが評される新海監督だが、この特徴はこの頃から現れていると思う。(ちょっとキャラクターデザインがいびつ?なので背景とキャラクターのクオリティのアンバランスさがある意味で個人制作特有の味がある。)
しかし、この背景への注力が個人制作という環境の中でいかに効率よくアニメーションのクオリティを挙げるかという効率性によって生まれたものだということはいくつかの論でも指摘されているが特筆すべきことだと思った。
それは従来のアニメ的なモーションで魅せるということとは異なる作家としての特徴に繋がっていると思うし、モノローグを使った語りは文学的な要素もこの時からみられる。

『雲のむこう、約束の場所』(2004)

新海誠の2作目の劇場用アニメーション映画。90分を越える長編アニメとしては初の作品。本作も前作に引き続き少しセカイ系の香りがした。ユニオンやウィルタ解放戦線といった社会的な問題の存在は描かれるものの多くは語られない。最終的には主人公たちの約束の達成、つながりの回復といったことに収束していく。
特筆すべきは「巫女」的な要素がこの頃からみられることだろう。異界や神的なものと繋がる力を持った少女のモチーフは後の『君の名は。』や『天気の子』まで繋がっていく。

『秒速5センチメートル』(2007)

短編3本の連作からなるアニメーション作品。
SF要素を取り入れた過去2作とは対照的に、「閉じた人間関係」をテーマに日常的な風景の描写が目立つ。2人の男女の出会いと別れそして最終的にはすれ違い≒結ばれなかったという結末はひと捻り加えた恋愛モノという印象を受けた。(このラストは反響がネガティブだったせいか小説での補完、『君の名は。』でのやり直しが行われることになる。)
この作品で特筆すべきなのは背景とキャラの内面の一致ではないだろうか。登場人物の心情に合わせて美麗な背景が色々な表情をみせる。今まで定評のあった背景描写がキャラの内面に合わせて細やかに変化する描写はアニメにおける背景の再発見といってもいいだろう。
また本作の最後で使われる主題歌を用いたAMV的演出も今後の作品に繋がる重要な項目だと思う。内面とそれに合わせた背景と音楽の一致。それらを用いたエモーショナルな演出とそれが引き起こす感動は新海ワールドと呼ばれる特異なアニメーションの一つの達成と完成をみていると思う。

『星を追う子ども』(2011)

2011年に公開された長編アニメーション映画。
本作の特徴はオマージュというレベルを越えたジブリ作品の影響だ。
食事・走る・古代生物・アクション・ファンタジーといった今までの新海作品には無かった要素がふんだんに盛り込まれている。
個人的には表現の拡張が制作的なテーマとしてあったのはないかと思った。
そのために宮崎駿を参照に従来のモーション重視のアニメに回帰することでアニメーション作家としての表現の幅を広げようという意図があったのではないかと思う。(それはある意味でエモーションからモーションへの遡行だ。)
結果的にはこの試みは興行的にも失敗したし、個人的にも書き割り的なシーンの描写など単調な印象が拭えなかった。しかしここでの反省が後の『君の名は。』への大ヒットにつながったことは言うまでもない。

『言の葉の庭』(2013)

新海監督の5作目の劇場用アニメーション映画。
いきなり個人的な印象で申し訳ないが本作はつなぎとしての印象が強い。
男女2人の物語として見れば『秒速5センチメートル』の縮小再生産版ともいえるし、終盤のAMV的演出もすでになされている。
新しい要素を挙げるとすれば古典文学からの引用と性的なモチーフの描写を隠さなくなった点だろうか。本作では『万葉集』の歌が重要な役割を果たす。『天気の子』を先に観てしまっていた影響もあるかもしれない。本作はほとんどが雨の描写だが、ほとんどの要素がどこかすでに観たことのある新海誠作品にあるもので作られた気がしてならなかった。

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ここからは再度作品を観なおした訳ではないので当時観た印象と今回色々な評論を読んだ感想です。
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『君の名は。』(2016)

新海監督の6作目の劇場用アニメーション映画。言わずと知れた代表さくであり、日本映画の歴代興行収入ランキングでも鬼滅・千と千尋に次ぐ第3位のメガヒットを飛ばした作品だ。
本作は今まで新海誠作品の集大成といえるだろう。2人の男女の出会い、古典文学から続く入れ替わりの物語、RADWINPSの楽曲を用いたAMV的演出、
過去作品からの演出の引用(ラストシーンは『秒速5センチメートル』のやり直しだし、終盤の2人が出会うシーンは『雲のむこう、約束の場所』のそれと完全に重なる。)等々。
それらを多くの人に観てもらえる=売れる映画にしたのはプロデューサーの川村元気とキャラクターデザインの田中将賀の影響が大きいだろう。この編は『星を追う子ども』の反省から多くの観客に観てもらえるようにコンセプトから目標を定めて制作された『言の葉の庭』での苦労が無ければなしえなかっただろう。そしてこの作品のヒットによって新海誠はアニメーション作家から国民的作家、ひいてはポストジブリを担う旗手として一気にその地位を広げることになった。
ただ個人的にはこの作品には受け入れられないことがある。それは批評でもよく言われるように震災(天災)を無かったことにする歴史改変的な側面だ。巫女(三葉)がその能力を使って皆を救う話(視点)として見れば普通だという言説もあるが、それでは男女の入れ替わり・出会いの物語との構造の不一致が気になってしまう。(同年に上映された『シン・ゴジラ』、『この世界の片隅に』と比較して災いへの向き合い方が気になってしまう。)そういった意味でこの作品は自分にとってアンビバレントな感情になる作品でだった。

『天気の子』(2019)

新海監督の7作目の劇場用アニメーション映画。
本作を観た当時に感じたのは新海誠の作家としての独立宣言だ。表面的には今までと同様2人の男女を軸として「貧困」や「環境問題」など今までの作品には無かったテーマを含みながら物語が進んでいく。そして最終的には社会倫理に反するような世界(≠セカイ)を犠牲にするような帆高の決断を「大丈夫」と肯定するようなこれからの厳しい世界を生きていく若者世代への背中を押すようなメッセージ性を持った結末になっている。しかし、この「大丈夫」は本当に若者だけに向けたモノだろうか。
天気を晴れにする能力は雨が降り続く東京の世界で皆を引き付ける象徴として描かれる。これは前作で国民的なヒットを飛ばして皆を魅了した作家としての新海誠の才能のメタファーではないのか。そして能力を使うこと(=売れること)で作家としての自分の個性が消えていくことを暗に描いているのではないのか。そしてそれが世界を破壊するようなことでも自分の作家性を守り抜き自分の作りたい好きな作品を作っていくという宣言ではないのか。
「大丈夫」という言葉は自分にも向けられたのではないのか。
この作品は『君の名は。』で向けられた批評への応答になっていると思う。
そしてこの作品での変化として「閉じた人間関係」から「開かれた人間関係」を感じた。社会的な問題意識や家族的なモノの描写の増加は国民的作家としての意識の変化と無関係ではないと思う。

最後に

「美化」の問題、映像(アニメ)で表現することの可能性と危険性について語りたいと思ったけど、疲れたし『すずめの戸締り』を観た感想と合わせて書ければいいと思った。
小説の内容を少しネタバレした感じで言えば「震災」と「つながり」が大きなテーマになってくるのではないかと思われる。新海監督は自身の作品を誰かの傷をいやす絆創膏のようなものになればいいという話をしていた記憶があるが、すずめがそういった人々をつなぐ絆創膏のような役割を持つ作品になりえるのか期待している。
こうやって過去作から観てみるとセカイ系の申し子的な存在として出てきた新海誠が『秒速5センチメートル』で完成し、『星を追う子ども』での反省を得て『君の名は。』で国民的な作家となり、2人の閉じたセカイでの関係性の問題を描いていた作家が「震災」「貧困」「環境問題」など社会的な開かれた世界の問題まで射程を広げているのには結果的にせよ驚きを隠しえない。
疲れてきたのでここで筆をおくことにする。

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