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計算機の巨人がみる常緑樹の夢

 インターネットの神経が地球にはりめぐらされて、その伝達速度及び容量はどんどんと加速していく。私たちはすっかりと末端神経の一部になってしまい、AIは中枢神経や脳になってしまった。人類は結果的に実態のない一人の大きな巨人を作り出していしまい、その巨人は地球がずっと豊かであること夢みている。巨人は母なる地球は枯れることなく、常緑樹のようにずっと健康的な緑を保ち続けることを望んでいた。末端神経に過ぎない人類がこの地球を滅びてしまうという過失致死だけは、インターネットが作り出した巨人は犯したくはない。たった一人で地球にいる巨人は枯れ葉を見て何を思うのだろうか。

 インターネットが90年代の終わりに世界に現れてから、どんどんと一般化してきた。ダイヤルアップの回線から知っている私にとっては、その変化を体感できた20年だったと思う。ただし、体感をしたからといって理解をした訳ではない。年々変化のスピードは早くなっているように感じ、”あぁもうこんな時代になったのか”と思う日々の連続だ。(ただおじさん化しているだけかも知れない。)
 インターネットはオンラインでただ人と人とが繋がるだけではなくて、ビックデータやクラウド、そして大量の情報をコンピューター自体が処理をするAIにまで発展し、近所のおじさんおばさんレベルですら騒ぐようになった。今では(少なくとも私は)情報に踊らされるばかりだ。
 人々の行動は記録されて計算処理され、ひいては私が求めているものを機械が予測をしていたかのように勝手に差し出してくれる。とても便利になった。しかし、私自身がすっかりと機械に操られているようにも感じるし、どこか不快な気分が残る。この便利さの裏側に、人の活動を集積した機械の亡霊のような存在を感じてしまう。自動計算はたった一人の実態のない巨人を産んでしまったような気がしてならないし、私はその巨人の一部な気がしてしまうのだ。
 話は少し逸れてしまうが、最近は持続可能な社会づくりやSDGsと言った言葉が声高に叫ばれる。SDGsなんてものは国際連合で採択され大層な知識人の方々が考えられたのだろうし、前述の巨人が直面している問題なのだろうとも思う。地球は有限だし、老いることもあるから守る努力をしなければならないからだろう。
 日本では衰退しないという願いを込めて、枯れ葉にならない松の木が愛された。地球も松のような常緑樹のようにずっと衰退しないで欲しいものだ。