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褒められること。

褒められることはモチベーションに繋がる。

これまで自分はそうやってやってきた。

中学1年生で初っ端の中間テスト。初めての本格的なテストということあって、自分なりに結構頑張った。その結果、めっちゃ良いという訳ではないが、クラスの中では上位の方だった。すると、周りの席の子たちからすごい…!と褒められた。

なんとも言えない気持ちだった。今でも覚えているくらい、あの瞬間は気持ち良かった。

これを機に、以降の試験も頑張れたし、ここまでやってこれたと言っても過言ではない。
もしもあの時、ほとんど勉強せず、褒められるような経験がなかったら、僕は今東京にはいないかもしれない。


これとは別に褒められることがマイナスに繋がった場合もあった。

それは小学生の頃だ。公立の小学校に通っていた自分は正直誰よりも賢い自信があった。
まず、中学受験をする人が少なかったし、中学受験をする人の中でも僕は負けていないなと思っていた。

もちろん小学校の頃のテストなんて余裕で、ほぼ満点だった。
そうなると、やっぱり周りの子たちは褒めてくれるし、先生も褒めてくれた。

おかげで僕は自分を天才だと思った。

しかし、現実はそう甘くはない。塾の中では全然できない方だったし、自分より賢い奴なんて腐る程いた。

そんな状況でも小学校の中では、もはや勉強をしなくても褒められるくらいの成績を出せたので、完全に調子に乗っていた。

そして自分は天才だと誤解したまま、見事に中学受験で挫折を味わった。


さて、褒められることでどうしてプラスになったり、マイナスになったりするのだろうか。

多分答えはそう難しくなくて、褒めてくる人がどの立場の人なのか、自分はどこを目指しているのかといった具合だろう。

小学校の頃の話で言えば、中学受験をしない人よりも、中学受験のために塾に行っている人の方が勉強ができるのは、言ってしまえば当たり前だ。

一方、中学の頃の話では、同じ中学に合格している人たちより勉強ができるのは当たり前ではない。

多分これが理由だ。褒められる言葉の重みが完全に違う。

小学生の僕は前者の褒め言葉を完全に受け入れていた。それに対して、中学生の僕は後者の褒め言葉を受け入れていた。

褒めてくれる人が自分の属している集団なのかどうか、自分が目指している所の集団なのかどうか。これを見極めなければならない。

例えば、大学院生の自分が小学生や中学生に「勉強できてすごい!」と褒められるのは至極当前である。さすがにこれだけ立場が違っていたら明らかだとは思うが要は同じことだ。

受験を例にとれば、偏差値70の学校を目指している人Aが、偏差値50の学校を目指している人Bより、勉強ができて当然で、AがBに「勉強できてすごい!」と褒められることを鵜呑みにしてはいけないのである。同じ偏差値70またはそれ以上の学校を目指している人Cに褒められることにこそ価値がある。

まとめると、褒めてもらえた時に、その言葉をそのまま鵜呑みにして、調子に乗ってしまうのは危険だということ。褒めてくれた人が自分の戦っている集団、あるいは自分の目指す方向の延長線上にいるのかどうかまでを見て、その褒め言葉を受け入れなければならない。

一応注意だが、それ以外の褒め言葉が無駄だと言っている訳ではない。やっぱり褒められると気持ちが良いし、モチベにも繋がる。
ただそれを鵜呑みにして、自分はできるんだ、と思うことが危険なことだということである。


ちなみに大学に入ると褒められることが極端に少なくなる。
周りはみんな優秀だし、すげー奴はマジですげー奴ばっか。

そんな環境で褒められることがどれほど気持ちの良いことか。

あー、誰か褒めてくんないかな〜〜〜。


あ、最後に自分が一番好きな褒められ方を紹介して終わる。

それはボソッと「すご…」と言われることである。

"ボソッと" が肝である。
心から言っている、ポロッと言ってしまった感がリアルでとても良い。

誰かの心からの「すご…」を出せるように頑張ろう。


楽しんでやってます☺︎