夢でときめいた

今朝は、自分のいろんな面が夢にできてた。特に無邪気な面・人の目を気にする面が際立った。

場面は修学旅行のような感じだった。同学年で固まって行動していたのだが、移動の際僕は準備が遅く、みなを待たせてしまった。「早くしろよ」「前もって用意しておけよ」という皆からの心の声を感じ、迷惑をかけることへの罪悪感と共に、足並みを揃えることへの生きづらさを感じた。

そんな中、準備が終わらないのでその集団との行動を止め、その後偶然そこにいた集団に取り込まれた。それはいくつか歳下の学年だった。彼らは些細なことにワクワクしたり、起こったことにその時の感情で反応していた。僕との会話も、直感的で、ワクワクが溢れるものだった。全部が新鮮な言葉で成り立った。

その中ですごく居心地のいい女の子がいて、ときめいた。全部が楽しそうな子だった。「でも」とか言わない、なんでも楽しいものにできる子だった。プラスの感情だけ紡げるのか、言葉や仕草一つ一つに、明るい感情が乗っていた。面白ければ楽しい、面白くなくても楽しい。全部楽しかった。思えば、以前こんな子がいたようないなかったような。この優しい空間の、不安感ゼロ感が好きだった。

あーなるほど。僕は無邪気に生きたいんだ。なんで周りは「大人です」と言わんばかりにクールになり、色々割り切り、型にはまっていくんだろう。苦しい。それに取り残されて僕だけ「大人」ってやつになりたいと思わない。「大人」にならなきゃと工夫している人もいる。これがこんな僕にも不安をもたらす。これが周りの目を気にする面だ。同調しなきゃいけないと、そう思ってしまうこともある。でも、同じようにすると、同じポイントで評価し合うだけの、とても無力感溢れる世界に生きることになってしまう。

「大人」になると、「子供」ではいられなくなるんだろうか。無邪気さを忘れることで手錠と足枷を足していく。いや違う。無邪気さは手錠と足枷で縛られるのかもしれない。

きっとみんな無邪気さはあって、それを出す場面はきっとある。その場面っていうのは家族や恋人、そして友達といる時だと思う。逆に、それとは違う場面では、安易に無邪気さを出しちゃいけない状況なのかもしれない。この外向けの人間性という文脈で「大人」になっている人が多いと思う。僕らが生きている場所は、そんな気の休まらない世界なんだろうか。

僕が夢の中で見いだした居心地の良さは、「無邪気さ」にある。なぜ、あるかわからない「邪気」に揚げ足とられることを気にしたり、何かに陥れられるかを不安に思わなければいけないのか。そんなものをとっぱらえる世界なら、全員が無邪気でいられるのか。みんな、他人に絶望して「無邪気」を隠すようになるのか。いったいどうなんだろう。僕が無邪気を向けてもらえるように仲良くなれば、みんなのそれは出てくるんだろうか。

余談だが、僕は他学年が好きだ。特に先輩が好きだ。なぜなら立場が違うことで、生きている前提が違い、フラットな関係でいられるからだ。ただ、僕が先輩を好きって言うのは、割合的に先輩が、低学年に対してその感覚を持ってる人が多いからだ。互いに違うことがわかっていると、居心地がいいのかもしれない。僕は一概に誰が好きかとは言えないが、「互いに違う」という前提の元一緒にいられる人が好きだ。

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