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発信願望?

今回の記事も盛大な自分語り。
まぁそのために作ったnoteだしな。

ここ数日Twitter(わかりにくいので旧名で書く)にいいねとリツイート、推しへのリプライ以外自分からの発信を敢えてしないようにしてみた。
できれば完全なTwitter絶ちをしたいところだけど、独りの自分を救ってくれるコンテンツが、主にTwitterをPRの媒体としてる以上はそれはできない。
実際に発信絶ちをやってみると、案外苦痛でもなんでもなかった。

Twitterの意味ある?フォローしてほしくない理由

元々僕のTwitterの使い方はちょっと特殊なのかもしれない。
基本的にアイドルや気になる発信をしている人をフォローしているだけで満足。

アイドル現場などで出会った人や友達を自分からフォローすることはよっぽどのことがない限りはほとんどない。例えよく飲みに行ったりする人であっても。

さすがに相手方からフォローが来たり、その場でアカウントを聞かれて拒否をするのは互いの関係値に影響してきそうだから、フォローバックはするし「あんまりフォローしない方がいいよ、うるさいからミュート、ブロックご自由に」とゴリゴリに保険をかけて教えるようにはしているけど。

なぜそんなことをするかと言うと「それTwitterやる意味ある?」と言われそうだけど、フォローをしてほしくないからというのが本音のところ。
その理由は次項から。

コミュ障なのに頭の中は常に賑やかな発達障害

今から語るのは発達障害の特性だと思ってるのだけど、”行動”や”会話”などの「具体的世界」での振る舞いが非常に苦手(自分の話なので他の方が違ってたらごめんなさい)
マルチタスクはできないし、会話中に言葉は詰まるし、運動もできない、空気を読むこともできない。

そうやって言語、非言語のどちらを取っても、他者とのコミュニケーションが苦手なくせに頭の中では常に思考が走り続けている。
なので自分の好きな物や興味のあることについて話し始めると、相手の興味や理解度を慮ることもなく、ネタがあっちに飛びこっちに飛びしながらマシンガンのように支離滅裂に語り始める。
傍から見たらただのやべぇ奴です。えぇ。

歳を重ねて経験則的に普通の人の「具体的世界」での振る舞いを真似て、多少擬態することはできるようにはなったけど、それは重労働に近いある種の作業。
普通の人が何も意識せずにやっていることを大幅なカロリー消費を伴わないとできない両刃の剣なので人と会った日の夜とかは強烈にMP不足に陥ってたりする。

それに対して具体的世界をひどく抽象化した”文字”や”文”だと、具体的行動なしで時間をかけて一人で思考を整理することができる。
考えがあっちに飛びこっちに飛び賑やかな状態でも、書き出して順番を並び替えればそれなりに体裁を保つことができ、発信の精度が上がる非常に便利なツールとなっている。

文字で五月蝿くなることによる影響

前項で書いたように文字だと発信の精度が上がる。
Twitterは画像や動画も載せられるけど、やっぱりベースは文字によるSNS。
Twitter世界では具体的行動を伴わずに常に賑やかな思考を思いっきり文字として整理して発信することができる。
そうするとあとはご想像通り、長文投稿が多くなったり、ツイート数が増えていわゆる”五月蝿く”なるのは火を見るより明らか。

そして気付く。
内容も面倒くさめで、空気の読めない発信を何回も繰り返すのって具体的世界での自分の評価に大きく影響を及ぼしてきそうだな…と。
発信するのはもちろん自由なんだけど、Twitterは相手のタイムライン汚しになることが多いので、これによる具体的世界での影響を恐れてきっとSNS上での他の人と繋がりを増やすのを避けているのだろうと。

それでもTwitterをする理由

じゃあなぜTwitterをやるのか?
1番の理由は「推しがやってるから」
これに尽きる。
推しの可愛い画像を見たり、推しへのいいね、リツイート、リプライなんかの応援電波おじさんをするにはTwitterをするしかないからそれは仕方がない。
でもそれが理由だと自分で発信することに説明がつかなくなる。それも自分なりに考えてみた。

まぁ結論から言ってしまうと”簡易版自分ノート”
自分ノートにピンと来ない人もいるかもしれないけど、簡単に言うと日々思ったことや感じたことを書いて忘れないようにしたり思考整理に使う何を書いてもいいノートって感じ。
文の整合性を取って世に公開したら枕草子とか徒然草とか方丈記みたいな随筆作品になるのかな。

僕も誰にも見せない自分ノートを用意して時々書いてたりするのだけど、書き出すまでのハードルが結構高い。
ノートを用意してペンを用意して書き物ができる机まで行って推敲しながら文字を書く。具体的行動のオンパレード。
文の構成を考えるのも仕上がったものを書き直すこともできないから、最後に仕上がったものが支離滅裂だったり誤字脱字が多かったりして美しくなかったりもする。
文字を手で書く刺激は好きなんだけど、手を動かしたりわからない漢字を調べたり、思考整理とは違う部分で圧倒的にHPとMPを消費してしまう。

そんな時に役に立つのがTwitter。
ベッドに横になったままスマホを何回かタップして指を動かしていくだけで簡単に自分ノートができあがる。

話題は豊富でタイムライン上に流れてくるいろんなニュースやトピック、アイドル、歴史から可愛い動物まで自分ノートのネタになるものがたくさん目に入ってくるし、短文投稿なので文を作るのにも大したエネルギーも時間も必要がない。

出来上がったものを修正するのも簡単だし、できあがったものを俯瞰して推敲して、より完璧に近い状態に仕上げることもできる。

つまりTwitterはネタプールであり、簡易版自分ノートとして手軽な思考の整理場所の機能を果たしていながらも、それを後から見直すことができるかなり利便性の高いコンテンツ。
この特性がマッチして自分はTwitterで発信していたんじゃないかと思い至った。

さいごに

今はTwitterほどお手軽ではないけど、このnoteが簡単に編集ができる自分ノートになったので、ここ数日はツイートをしなくてもそこまで生活に変化がなかったのかなと。

人間なんてのはころころ意見が変わるし、それが発達障害の人間ともなればことさらで、数日後にはまたTwitterでキーキー喚いてることもあると思うけど、今はアクセスがほぼ0で誰の目にもつかないここにつらつらと思ったことを書いているのが心地よい。

それでもWeb上でハッシュタグをつけて公開して発信してるのは、見てほしくないと言いつつやっぱりどこかで誰かに共感してほしかったり自分の意見を知ってほしいっていう承認を求めてたりするからなのか。

それは未だに模索中。

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