中川翔子『「死ぬんじゃねーぞ!!」いじめられている君はゼッタイ悪くない』-いじめ被害者はどうすれば救われるのか-
今回は、とあるオンラインコミュニティのメンバーであるDaikiさんが紹介してくださった、中川翔子の『死ぬんじゃねーぞ!!』に関連する文章を書いてみようと思う。Daikiさんのリンクを以下に掲載する。
0. はじめに
いじめは様々な人間関係のうちのひとつの様式にすぎず、いじめを撲滅しようと思ったら人間関係すべてを捨て去るか、脳にチップでも埋め込んでいじめの兆候が検出された際に無理やり矯正するくらいしか方法はないように思う。現実的には、いじめの発生を察知して食い止めることはほとんど不可能であるため、いじめられた側に対するケアやいじめた側に対する指導を後からやらざるを得ない。
ここからは、私の学校生活で起きたいじめや周辺の事象を思い出してみる。
1. 小学校時代
小学5-6年生のときの同級生に不登校児がいた。最初から不登校だったわけではなく、だんだんと来なくなり、ほぼ完全に不登校になったと記憶している。原因はおそらくいじめであったと思う。彼の家庭環境の問題なのか、服装や髪型があまり衛生的でなかったと記憶している。私自身がいじめていたか覚えていない(とぼけているのではなく、本当にわからない)が、彼に対してあまりいい態度をとっていなかったのは事実である。当時はポケットモンスタールビー・サファイアが遊ばれており、彼にサファイアを貸して返ってきたときに「間違ってデータを消しちゃったから途中まで進めておいた」と言われたことを覚えている。その後、途中まで進められたデータを消して再度はじめからプレイしたのは言うまでもない。
現代の学校教育では御法度だと思うが、クラス全員で彼の家に行き、学校に来るように外から励ますという機会があった。個人的には、学校に行きたくないならその気持ちを汲んであげるべきだったと当時も今も思っている。その後彼が学校に来るようになったかの記憶は定かではないが、たぶん来ていない。
2. 中学校時代
中学三年生のころ、私は複数の同級生からいじめられていた。客観的に見ていじめといえるかは難しいところだが、少なくとも主観的にはいじめられていた。しばらく耐えていたのだが、だんだん耐えることが難しくなり、担任に相談した。担任が何をやったのかは不明であるものの、そこからいじめられていると感じるようなできごとはなくなった。高校に進学する際にいじめ加害者とは異なる学校になったこともあり、それ以来加害者との接点はなかった。地元の最底辺ともいえる公立中学校から脱出して高校に進学すると、環境が違いすぎて異国の地に来たかのような感覚になった。
確か高校在学中に、加害者の一人が海で遊んでいて流されて亡くなったというニュースを耳にした。弔問の案内などが回ってきたが、私は当然行かなかった。加害者が亡くなったことで、私の心が少し救われた気がした。直接的に表現すれば死んでくれてありがとうという気持ちだ。この文章を書きながら加害者のことを少し思い出していると、それぞれ5回ずつくらい刺し殺したいという欲求が自分に眠っていることに気がついた。もちろんそんなことを実行に移すことはないが、そのくらい自分にとっては重大な出来事だったということだと思う。本書では中川翔子のいじめ経験が説明されており、おそらく中川も似たような感情を抱いたことがあるのではないかと推測する。
3. いじめ被害はどのように救済されるか
前項でいじめ経験に触れた。これは「いじめられたと思ったらそれはいじめだ」というルールに基づいた自身の感想であるが、いじめ以外で「〇〇されたと思ったらそれは◇◇だ」という論法を使うべきなのかは少々悩むところである。いじめやハラスメントは道義的な問題と法的な問題を区別して考える必要がある。たとえば上司や先輩からなにか厳しいことを言われたとして、主観的に「パワハラだ」と思ったとしよう。それで道義的責任(組織内で注意処分などをする)ことを問うことはあり得ても、それがすなわち法的責任(慰謝料の請求など)を問うことには結びつかない。個人が不快に思う程度のことをすぐに大きな問題にしたがる人は多いように感じている。そのような人は道義的な問題と法的な問題を区別できていない。自分の快・不快はまずは自分の中や周囲の限られた人間の中で処理すべきである。自由や寛容を重視する社会ならば、自分が多少不快になることを受け入れなければならない。どうしても法的な対処が必要だと思ったら警察の力を借りるしかない。
いじめ加害者は何歳になってもいじめを反省することはない。いじめをする能力は仕事で成功する能力に近しいところがある。被害者は加害者を見返してやりたいと思うかもしれないが、そもそも加害者は被害者のことなど忘れてしまう。被害者が救済されるとしたら、加害者を絶対に許さないと心の中で思い続けながら、それとは無関係なところでなにか成功を収めるくらいしか思いつかない。もし加害者が謝りたいと言ってきたとしても、それに応じてはいけない。謝罪したという事実を作ることに協力して加害者の心を軽くしてあげる必要はない。いつでも心の中で中指を立てることで自分の人生を歩む原動力になるし、それが結果的に自身の救済への道につながっていると考える。
いじめ被害者に対して大人がかけてあげられる言葉は少ない。「死んだらだめだよ」とか「前を向いてがんばろう」という言葉は、年齢を重ねた私は正しいことであると思えるが、子どもがこの言葉を信じるのは難しいだろう。将来に希望を持とうとしても、目の前の出来事がつらいという事実は変わらないからだ。ただ手を取り合っていけたら。ただ一緒にごはんを食べて味方であることを伝えられたら。言葉を介さない愛情がいじめですさんだこころを癒すかもしれない。
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