ゼロからの『資本論』
ベストセラーとなった『人新世の「資本論」』の著者である斎藤幸平氏によるマルクスの入門書「ゼロからの『資本論』」。マルクスとはこういう考えを持っていたんだ、と改めて感じるのもではあったが、『人新世の「資本論」』のインパクトが強かったせいか、この本は、面白くさらっと読んでしまったという感じである。
それにしても、マルクスというのは大思想家なんだとつくづく思う。マルクス・エンゲルス・ゲザムトアウスガーベ、略称MEGA(メガ)、1970年以降は新メガという形で今も多くの学者たちに研究され続けている。どうして彼の思想はこんなにも多くの人たちを魅了するのだろうか。僕は『資本論』を読んだことはないので、直接彼の言葉に触れているわけではないが、斎藤氏の著書を通して感じるマルクスは大常識人であるということ。もう少し違う言い方をすれば大観察人であるということ。よくこんなにも世の中を、人を観察したものだ、という印象を受ける。今でも読み続けられているというのは、普遍性みたいなものをそこに感じるからだろう。色々な解釈や刺激を受けて考えることができるけれども、マルクスは言葉には現せなくても、たしかにその普遍性に到達した人だと感じるから、人はマルクスを読むのではないだろうか。彼が見ていた世界を見てみたい。これは僕の独断と偏見な表現であるが、でも、人が誰かに魅了されるという時は、その人が何を見ていたのか、彼の目、彼の頭(考え方)を通して、世界を見てみたいと多かれ少なかれ思うものではないだろうか。
マルクスは常識を見た、世の中の真理を見た。しかし、マルクスが本当に見たかったのはユートピアだったのではないだろうか。斎藤氏は本書の中で「マルクスはユートピアの思想家である」と語っています。
今のような危機の時代にこそ、『資本論』を読んで、資本主義社会の「常識」を越えて、今とは違う豊かな社会を思い描く想像力を取り戻し、行動を起こすためのきっかけにして欲しいと、心から願っています。でも、そんな昔の本よりも、もっと最新の経済学の研究とかを読んだ方がいいのではないか、と依然として感じでいる方もいるかもしれません。19世紀のマルクスの考えが、なぜ今も重要なのか、と。
それは、マルクスが、革命とユートピアの思想家だからです。
氏のまた、多くの研究者たちがマルクスを求める理由がよくわかる言葉ではないだろうか。たしかにマルクスの言っていることは素晴らしい。でも、そこには多くの解釈が入っている。入り込む余地がある。もう少し言えば、そのようにマルクスは考えたのかもしれない。人はどうしたら自ら考え、行動し始めるのか。何か一つの答えを出すことが革命ではない。思想ではない。人が動いてはじめて革命はなされるし、思想は立ち上がる。そのためには、ただ現実をそのまま語ることではなく、理想が入り込む余地が必要だった。もしかしたら、こう解釈したら、と周りの人たちが、理想を描けるような余白を作ったのではないだろうか。
残念ながら天才の言っていることは、天才にしかわからない。彼のような天才の言葉が、僕のような凡人にもわかるということは、そういう仕掛けがあるのではないかと思うのである。自分なりの解釈が入り込む余地があり、そして、そこには希望や理想というピースが入るようになっている。マルクスはそんな本を書いたのではないだろうか。
マルクスのような天才が、死について考えなかったということはないだろう。自分が生きているうちに書けることに限りがあることはわかっていただろう。生きているうちから、自分の存在の意味を認識して、自分が死んだ後もどうなるかも考えていたのではないだろうか。それは彼が計算高いということではなく、それこそ「革命とユートピアの思想家」だから。そんな自分の思想がいつか実現されることを信じていた。革命はなされ、ユートピアはいつか実現される。それを一番に願っていたのがマルクスだったからこそ、その考えが彼の元へやって来たのではないだろうか。
『資本論』も読んだことのない僕がマルクスのことについて語ろうとすることには無理があるが、でも、この本を読んだだけでも、どう人に影響を与えているか、と考えるとそんな気がするのである。
時代の転換点には、人は言葉を求める。思想を求める。そして、それはやっぱり自分にとって、みんなにとって幸せな世界が訪れるものであって欲しいと人は願っている。マルクスは人のそんな願いがあることを知っていた。その願いによって書かされた思想家なのではないだろうか。
きっと斎藤氏のような人が、日本に現れたのも偶然ではない。『人新世の「資本論」』がベストセラーになったのも偶然ではない。きっと今まさにそれを人が求めているから「現れた」と言うこともできるのではないだろうか。斎藤氏の世の中を見る目、視点というのが、今悩みを抱えている多くの人たちの目であると感じる。観察すれば、言葉となって本になれば、そうだよね、とわかることも、なかなかその目で世界を観察することは難しい。というか、耐え難いものがある。決して今の世界は美しいという言葉で形容できるものではないからだ。むしろ、見れば見るほどその醜さが見えてしまう。でも、氏は目を逸らさない。そして、観察を続ける。そして、その奥にあるユートピアまで見通そうとしている。その先にあるものが微かでも見えるからこそ、見て、見て、見抜く、ということを続けているのではないだろうか。そして、その目を過去に持っていたのはマルクスであった。二人はもしかしたら、今、同じ世界を見ているのかもしれない。
斎藤氏の本には、言葉には、いつも勇気を与えられます。本当にありがとうございます。
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