見出し画像

やさしさとは

哲学(考えること)は不滅です。

今週は若松英輔著『池田晶子 不滅の哲学』を読みました。この本は若松英輔氏による哲学者池田晶子の論評です。池田晶子は平坦な言葉で哲学(考えること)について書き、哲学エッセイというジャンルを開拓した人物であり、哲学の巫女とも呼ばれていました(自分を哲学者と呼ぶことは嫌っていましたが、この言葉はわりと気に入っていたのでは?)。2007年に46歳の若さで亡くなりましたが、今も彼女の言葉はこの世の人に編まれ続け、この世の中で出版され続けています。

しかし、なぜ亡くなってからも彼女の本は出版され続けているのでしょうか? 生きている間にも多くの著書があり、もちろん、彼女は亡くなっているので、これ以上の言葉は生まれてくるわけがない。でも、彼女の言葉を残そうとする人たちがいる。それはどういうことなのでしょうか。

若松英輔氏は、本書の中で、このようなこと語っています。

"古くから「よみびとしらず」に秀歌が多いことから分かるように、真実の書き手は、個性的であることを恥とした。書物と呼ぶにはふさわしい「生き物」に蔵されているのは、単なる情報や知識ではない。作者の固有名を超えた精神の伝統である。書き手がもとめるのは、名を残すことではなく、伝統という価値の流れに参画することだった。"
(『池田晶子 不滅の哲学』若松英輔)

池田晶子もまさに無私の人だったと思います。それは、単に利他的な人間であったという意味ではなく、考えれば考えるほど、自分(私)というものがわからない。なぜ私(人間)が存在しているのか。私が私だと思っている私というのはなぜあるのか? 彼女の本を読めばいつでも、存在の深淵へと向かっていくことがわかります。そんな彼女にとっては、自分という私よりも、私を私と思っている私が不思議であった。それ以上に不思議なことはないと。

人が個性だ、名誉だ・・・、なんてことを言っている時に、彼女は全くそんなことに興味を覚えず、無私であったのだと思います。まさに「個性的であることを恥とした」。池田某が書いているのか、ソクラテスが書いているのか、そんなことはどうだっていい。彼女にとっては、誰が書いたかということよりも、その言葉そのもの自体に価値があるのだと。彼女の本を読んでいるとそれがわかります。

じゃあ、なぜ彼女は書いたのか。それは偶然から始まった必然であり、それはもうそうしたいからというよりもそうせざるを得ないものだったのではないでしょうか。

若松英輔氏は、そのことについて、古今和歌集から引いてこのように語っています。

"詩人はただ、「詩」を作る。作ることを強いられる。「詩」は、ジャンルとしての「詩歌」とは限らない。それは、私たち一人一人のかけがえのない生そのものである。私たち一人一人が「詩人」なのである。比喩ではない。「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と、古今和歌集の「序」にいうのは真実である。"
(『池田晶子 不滅の哲学』若松英輔)

じゃあ、どういう時に、それ(詩)は生まれるのか。池田晶子の言葉を借りれば、いや普遍的な言葉で言えばそれは「絶句」から生まれる。言い換えると「驚き」から生まれる。「驚き」が生まれたところに「なぜ?」が生まれる。そこから哲学(考えること)は始まるのだと。

だから、彼女は哲学を教えることはできないと言う。何を考えればいいのかを教えられないと言う。それはその人が何に「絶句」するかは、その人次第だからである。

言葉通り死ぬ直前まで書き続けた彼女の言葉は今もまだ書かれ続けている。そう哲学(考えること=考えている私)は不滅なのです。

ここから先は

3,836字 / 2画像
過去の記事がすべて読めます!!

人生は不思議(あたりまえ)なことばかり。 不思議を知り、それについて考える。 考えるほどに、人生は味わい深く、面白い。 週刊エッセイ(メル…

A world where everyone can live with peace of mind🌟