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『藍色の福音』

若松英輔氏の『藍色の福音』を読んだ。本や言葉との出会いを綴った自伝的エッセイとでも言えばいいだろうか。でも、それは年代順に書かれているわけではなく、ただの自伝とも趣が違う。若松氏がいなかったら、僕はきっと池田晶子にも、小林秀雄にも辿り着くことはできなかったのではないだろうか。そう考えると、人生の恩人に当たる人なのかもしれない。直接会ったことがあるわけではないけれども、言葉を通して、出会った大切な人。最近は亡くなった人の本ばかりを読むことが多いので、講演会など直接お話を聞く機会を模索している。きっと会えなかったら、後悔するだろう。そんなことが予感される。会って話を聞いたところで何が起きるというわけでもないかもしれないが、でも、会ってみないことにはわからない。だから、人生は面白い。そして、邂逅によってこそ、こういう本が編まれることになるのである。

批評家、評論家である氏に対して、批評するというのはなんだか恐れ多い感じもするので、本を読んだ感想ということで、書いてみたいと思うのであるが、でも、書いているときっと批評的になることをお許しください。

氏の本の中で一番影響を受けた本を選ぶなら『悲しみの秘義』を選ぶだろう。ただ何が書いてあったかはもうあまり覚えてない。でも、とても大切なことが書かれていたことは覚えている。若松氏の本を読む時の鍵語のひとつは間違いなく、「かなしみ」だろう。そして、「悲しみ」は、「愛しみ」であり、「美しみ」であることを彼から学んだ。僕の場合は何か深い喪失を経験したことがあるわけではないので、体感としてそれがわかったわけではない。でも、これから必ず訪れるであろうその時に、この言葉を持っているのと、いないのでは、全然違うのではないかと、僕はいつもお守りのようにこの言葉をいつも心のポケットにしまっている。

十代の頃、若くして病気で従兄弟が亡くなった。そして、二十代の時に、その従兄弟の弟の方も亡くなった。まだ二十代の前半で人生これからなのに。なかなかその現実をその時受け入れることはできなかった。今でも、なんだかまだ現実の出来事だったのか、もうあれから二十年近く経つ。彼らが亡くなってからの人生の方がそろそろ長くなってしまうのである。うまく弔うこともできなく、うまくかなしむこともできなく、まだ彼らが生きているとまでは言わないが、なんだか現実と捉えていいのか、幻のだったと思いたいのか、自分の中でもなんとも言えない霧の森の中にいる感じがする。いつかその霧は晴れることはあるのだろうか。

僕くらいの歳でも深い喪失の経験をしている人はたくさんいる。その人たちに寄り添いたいと思うが、でも、彼らが抱えているかなしみはまだ僕には理解できないことも知っている。喪失を求めるわけではないが、その気持ちに寄り添えないことはどこかもどかしい。そんな不思議な感覚がある。別に何かを失いたくはないが、どこかでその気持ちがわかりたいと思う自分がいる。なぜだろうか。

今回、この本の中で一番印象に残ったのは、魂についての話だ。小林秀雄を読み終わった後に僕は河合隼雄を読みたいと思っている。そこには、池田晶子がやり残した何かがあるかもしれないと感じるからだ。それが何かなんてことはわからない。彼女がまだ生きていたら、もしかしたら、そうしたではないかということ。もっとこの分野を学んだのではないかということ。なんとなく彼女の本からそれを受け取り、それをたしかめるためにも、また読んで、考えて、書くを繰り返す。そこに何かがあるわけではない。でも、そうしたいと思う何かがあるのだ。

だから、この本で河合隼雄のこと、そして、魂のことについて書かれていて、その確信はさらに深まるのであった。僕は学生の頃に臨床心理学を勉強していた。大学に入って何がしたいというのはなく、国立の大学に受けたら落ちてしまい、一応、滑り止めは一番興味のあるものにしようと思ったところがたまたま心理学だった。その当時はただなんとなく面白そうだ、というだけで受けた。臨床心理学なんてなんなのかも全然わからなかったし、臨床心理士なんて何をやっている人なのかもわからなかった。でも、浪人して勉強する気にもなれなく、そのまま大学へ通うことになった。河合隼雄のことは当然出てくるのであるが、その当時はあまり彼の本を読むことはなかった。どちらかというとフロイトの方に興味があり、またユングを少し読んだくらいだろうか。あとは、大学の先生が、心理学を勉強するためには、人の心の中動きを知るためには、推理小説がよいという話をしていたので、長い通学時間にはいつも推理小説を読んでいた。それが役に立ったのかどうかわからないが、でも、少なくともそこで本を読むという習慣を身につけることができたのは、振り返ってみるとよいことだったのではないかと思う。それまでは漫画以外はほとんど本なんて読んだことがなかったので、そこで初めて活字の面白さに触れることができた。

結局、大学は卒業したものの、やりたいことは見つからなく、大学院受験も目的がはっきりしないまま受けて、結局、不合格。そこで自分は本当は何をやりたいのかを考えることになる。それが大きなひとつの転機になるのだが、それはまた別のお話。

なんだかいつの間にか自分の話になってしまったが、そういうところから何かがつながっている。当たり前のことだ。未来から見たら人生は一本道なのだから、つながっていないわけはないのである。でも、僕たちには未来からそれを見るということができないだけで、そう道がつながっていることを信じるだけなのである。

世の中になんでこんなに悲しみがあるのかわからなかった。楽しい、美しい、愛しいだけではなぜダメなのか。人は幸せになるために生きているのに、どうしてかなしみなんて不合理なものがあるのだろう。そう考えることもあった。でも、若松氏の本を読んでいるとなぜ人には、人生には、かなしみというものがあるのかがわかるようになってきた。言葉では理解することはできる。でも、僕にはまだ実感として欠ける部分がある。きっといつかわかる日がくると思う。その日は来て欲しいような来て欲しくないような。だから、やっぱり氏の言葉をお守りにして僕はまたそれを心のポケットに入れておくのだ。

悲しみとは、何かを愛したという証しにほかならない。それはあたかも真の悲しみが愛を種子として咲く魂の花だというのだろう。悲しみの花は目に見えない。それは内界でのみ花開く。それはときにこの上なく美しい。だからこそ、人は「美しい」と書いても「かなしい」と読むようになったというのである。
(『藍色の福音』若松英輔)

僕はきっとこの花を見てみたいと思っているのであろう。例え、深い悲しみがやってくることがわかっていたとしても、愛の種子を育てたい。そして、それが生きるということなのだから。

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