『シン・ウルトラマン』感想

『シン・ウルトラマン』の感想を書く。ものすごく長いので、長くても良いよ、って人だけ読んでください。あと盛大にネタバレしてるので未見の方はスルーしてください。

 ネット上では評価がかなり真っ二つに分かれているようだけど、僕個人の感想としては『シン・ウルトラマン』は日本一のウルトラマンオタク、庵野氏の面目躍たる見事な空想特撮映画だと思う(以下敬称略)。

原典への愛

 この映画にはとにかく原典への愛情に満ちたフェティッシュなまでのこだわりがこれでもか!と詰まっている(なんなら詰まりすぎて映画自体を圧迫している笑)。
例1:にせウルトラマンの顔面をチョップしたあと痛がって手首を振るウルトラマン。これは原典の同エピソード内でのスーツアクター古谷敏のアクションそのまま。ちなみに古谷はこのとき手のあまりの痛みに悲鳴を上げたとのことで、これは素のリアクション。
例2:ゼットンの鳴き声(?)「ゼットーン!」(元々はゼットン星人の声だけど)。原典のオリジナル音源を使っているらしい。
例3:ゼットンの1兆度の火球。1兆度という荒唐無稽・男子小学生的「設定(実際には1兆度だと太陽系どころか半径数百光年の宇宙が蒸発してしまう)」へのイジリはたぶん『空想科学読本』あたりからではないかと思うけど、この「公式設定」を利用するあたり、知ってる人ならニヤりとするところだ。
 その他、この手のこだわりは枚挙にいとまがない。OP『シン・ゴジラ』のロゴ爆発ワイプ→『シン・ウルトラマン』のロゴ→最初に登場する禍威獣がゴメス(ゴメスの着ぐるみはゴジラの流用だから縁がある、よく見るとゴジラの背鰭が見える)とか細かいな、おい!

シン・ゴジラと較べると…

『シン・ゴジラ』との比較について。シン・ウルトラマンにはシン・ゴジラのような緊迫感や悲壮感がない、という感想もあるみたい。うん、分かる。でも、ゴジラと禍威獣の性質は実際かなり違うものだ。
 ゴジラは壊滅的な被害をもたらす巨大地震や津波、あるいは核兵器のメタファーだ。理不尽かつ強大な暴力そのものであるゴジラによって都市は蹂躙され、人々は逃げ惑い、通常兵器は役に立たず、人類には打つ手がない。そりゃあ悲壮感も募ろうってもんだ。
 ゴジラが巨大地震なら禍威獣はさしずめ毎年来る大型台風みたいなものか(いやもちろん台風だって大変だけど)。でも、映画冒頭の畳み掛けで分かる通り、人類は禍威獣に辛くも連勝している。恐ろしいけど、ギリ、対策可能。分析して、推測して、対策して退治できる。だからこそ「今度のもだいぶ厄介ですね〜」なんて呑気な会話ができるのだ。だいいち禍威獣の出現が常態化しているというのに、いちいち悲壮感なんて出してはいられない。
 それにそもそも両者は成り立ちからしてだいぶ違う。ゴジラは核実験という愚行に対する呪いとして人類に襲いかかる。人類が力を合わせて最終的に勝利したとしても、安心はできない。我々がこれからも愚かである限り、次のゴジラを生み出すであろうから。その点、禍威獣は人類に反省を促したりはしない。原典であるウルトラマンにはその手の回もあるけど、こと本作の禍威獣に関してはシンプルに「倒すべき無法者」である。ウルトラマンの世界とは(ウルトラマンに助けてもらっちゃうことが多くて禍特対=科特隊はいつも葛藤しているけど)基本的には科学と未来が信頼されている世界だ。「子どもたちに明るい未来を信じてほしい」という願いの込められた世界。だからウルトラマンの世界は明るくなくてはならない。シン・ゴジラに比べてシン・ウルトラマンに悲壮感がないのは、元々の世界観が違うからなのだ。

エヴァと較べると…

 エヴァにそっくりじゃん!という意見もある。でもそれは順序が逆で、正しくは「エヴァがウルトラマンにそっくり」なのである。というか庵野はウルトラマン(とガンダムとナウシカ)がやりたくてエヴァを作ったのだから似てるのは当たり前。最初から「使徒」≒「怪獣」だったのだ。市街地で使徒と初号機(古谷敏体型!)が向き合ってるカットなんてまんまだもんね。

デザイン

 この映画のウルトラマンは、オリジナルのデザイナーである故成田亨氏の意匠にかなり忠実にデザインされている。まず、カラータイマーがない。カラータイマーは演出上の都合で後から後から付けられたもので、成田はカラータイマーのあるウルトラマンを嫌っていたという。次に、体形の原型を古谷敏からとっている。成田はウルトラQでケムール人を演じた古谷の8頭身の細身の体形に惚れ込み、ウルトラマンのスーツアクターとして自ら口説き落とした。ウルトラマンのマスクは古谷のライフマスクを元に造形され、スーツも古谷の身体を採寸した特注品だ。ウルトラマンの「肉体」は古谷自身の身体と切っても切れないのだ。さらに、体色がメタリックな銀色なのも、元々の成田の希望通りだ(成田はロケットから着想して体色を銀色にしており、原典のウルトラマンのマットな銀色には不満だったという)。加えて成田は怪獣や外星人のデザインに対する独自の美学を持っていた。内臓が露出していたり顔が崩れていたりといった、子どもが嫌悪感を催すようなデザインはすべきでなく、外星人についても「地球人にとっては敵でも彼の星では英雄なのだから、不思議な格好良さがなければならない」としていた。その結果、有機物と無機物が融合したような不思議で魅力的なフォルムの怪獣や外星人が生まれた。『シン・ウルトラマン』にもそのデザインマインドはしっかり踏襲されている。してみると『シン・ウルトラマン』は、成田亨イズムによって創られた「ウルトラマン」だ、といえるかもしれない。

エピソードの選択

取り上げるエピソードの偏りも意見の分かれるところだ。バルタン星人は出ないのか?ゴモラは?ジャミラは?ダダは?ううむ。確かに見たい。見たいけれども『シン・ウルトラマン』のテーマが「知性(人類)vs知性(外星人・光の星含む)」なのだとすれば、このチョイス以外にはないんだろうなあ。

巨大浅見について

 これは原典の巨大フジ隊員でも全く同じなんだけど、素の人間の形態のまま巨大化するっていうことは、逆にいえばミニチュアの中に等身大の人間がいるということで、このスケール感の倒錯は「特撮」というものの最も原初的な快楽のひとつだ。怪獣やウルトラマンではなく、ミニチュアを設営するスタッフを観るような感覚は観客の現実感をぐらつかせる。加えてストーリー的にも、ウルトラマンの巨大化原理とメフィラスの動機をいっぺんに説明でき、かつ人類文明が外星人文明に全く太刀打ちできないこと(しかもこれが後のゼットン攻略のキーともなる)がはっきり分かるという点でも重要だ。

ぶっとばす

 対ゼットン戦の、ウルトラマンからの超貴重な情報を人類の最高の叡智を結集して解析した結果が「力いっぱいぶっとばす」というのは本作最大の庵野イズムの発動で、このしょーもなさ(褒めてます)は何となく『トップをねらえ!』を彷彿とさせる。だからここは「しよーもな!」とか「くだらねー!」とか言いながら快哉を叫ぶところなのであって、これに対して「ええ…(困惑)」みたいになってしまう向きは(それはそれで致し方ないのだけれど)つまり元々ツボというかノリというかそういうものが合わないってことなのである(ちなみにこれってVRを使ってものすごく高度な議論を行っている滝がはたから見ると間抜けに見える、というシーンで前振りされてるよね)。

残念な点も

 僕は『シン・ウルトラマン』という作品について概ね肯定的に評価しているんだけど、それでも少しは残念だった部分がある。ひとつはストーリー的な部分で、ウルトラマンの正体が比較的早い段階で明かされてしまうこと。2時間という尺を考えるとやむを得ないかもしれないが、やっぱりちょっと早すぎる。変身もののメインプロットである「仲間に対して正体を隠す=嘘をつく」という「ヒーローの原罪」が早々に破棄されてしまった感がある。もうひとつは演出的な部分で、浅見役の長澤まさみがやたらと自分のお尻を叩く演出はいらなかったんじゃないか、と思う。一緒に観に行った女性は「特にセクハラ的な感じはしなかった」と言ってたけど、絶対必要な演出とは思えないし、ここに関しては「悪い方の昭和」が出てしまった印象。

ナウシカ

 これはあくまで個人的な印象だけど、『シン・ウルトラマン』には『風の谷のナウシカ(漫画版)』も入ってると思っている。どこにかというと、ゾーフィ+ゼットンの存在に。ナウシカから「オーマ」と名づけられた巨神兵は急速に知能を発達させ、自らを「裁定者」と呼ぶけど、このオーマが飛行するときのシルエットがどことなくゼットンと重なるのだ。ゾーフィも裁定者だし、世界を滅ぼせるくらい圧倒的な攻撃力を持っているところも同じだし。そう考えると光の星ってちょっと「シュワの墓地」みたいだ。で、ウルトラマンは「上位存在」の裁定の正しさよりも人類の自律性(命は闇の中に瞬く光だ!)を取った、というわけ。

 しかしまあなんぼでも語れるな。自分でも呆れる。が、生まれて初めて映画館で観た映画が『ウルトラマン(テレビの再編集)』だった僕にとって、やっぱり『シン・ウルトラマン』はちょっと特別な存在なのだ。続編やるなら絶対観るけど、あるんですかね?

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?