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登場人物は、存在そのものが戯曲的である

映画「さかなのこ」を見た。
NHKでやってた分を録画しておいて見た。
さかなクンがさかな博士になるまで(というよりは有名になるまで)を少年時代から描いたものだった。
主人公「みー坊」を演じたのはのんさん。のんさんのらんまんな感じがとてもいい。
(浜辺美波さんではない)

ちょっとネタバレだけれど、印象に残ったのはヤンキーたち。
昭和レトロかつ典型的すぎるほどのヤンキー。
しかもそのテンプレートをいじることで笑いに変える感じ。
中でも、「青鬼」(「赤鬼」もいます。なんやそのあだ名。)がバタフライナイフをびゅんびゅんやりながら取り出すさまが笑える。
しかもそのナイフ、みー坊が魚捌くのに使うという…。
その時の青鬼の顔…。

さかなクンの少年時代、実際はそこまで波瀾万丈ではないと思う。
やはり映画にするために、誘拐騒ぎがあったり不良たちとつるんだりと、ドラマチックな展開にしているんだろうなと。
そういう肉付けの仕方こそが、脚本や演出の凄いところなんだろうなと、しみじみ。
けれど、そこにカブトガニの話とか、事実に基づくものも当然含まれている。
その虚実入り混じる感じが、ノンフィクション部分を調べたりする次のアクションに繋がるからgood!

さて、タイトルについて。
この映画の後半、みー坊が天職につき活躍するようになるきっかけを作るのは、少年時代に出てきた同級生の友達だったり、不良の人たちだったりする。
現実には、もっともっと多くの人に出会う。
大して関わりのない人に思いもかけないような提案されることもあれば、学校の先生に勧められた進路で順当に進むこともある。
飲み屋でたまたま横から聞こえてきた話から、何かヒントを掴むこともあるだろう。
つまり、少年時代の出会いが、まるでピースがはまっていくように、人生の重要な決断のシーンで重要な役割を果たすというのは、ドラマチックすぎるし、現実的ではないように思う、ということだ。(もちろん、現実は小説より奇なり。そう言うことも往々にしてあるのだろうけれど。)

小説も映画もアニメも漫画も、このように限られた登場人物によって物語が進行していく構造を持っているように思う。
登場人物を限定することによって、その限られた登場人物に感情移入したり親しみを覚えたり、時にはその人物が伏線として使われたりするのだ。
かえって登場人物が次から次へと出てきていつまでも収束しない物語は、「いやお前誰やねん」とそのうちなっていくだろう。
人物に限らず、空間や時間も制限されることにより、締まりのある物語になるというものだ。
「この人物が中心となった、この場所・この時間軸での話」を、多分私たちは楽しんでいるのだろう。

朝ドラ「虎に翼」も大いにこの構造を持っていると思う。大体において朝ドラは主人公の一生、または半生が描かれるので、時間や空間の制限はあまり行われない。しかし、登場人物に関しては別である。
(ただ、朝起きて飯食って散歩して歯磨いて寝た、みたいな一日が切り取られている訳ではないけれど。その意味では、「Perfect Days」は本当に素晴らしい作品なので皆さんに見てほしいです。
新しい登場人物はもちろん回を追うごとに増えていく。
家庭裁判所編では多岐川さんが出てきたし、新潟編では弁護士兄弟が出てきた。
けれど、どの場面においても必ず、女学校時代、志をともにした人たちが偶然の出会いという形で出てくる。
「そんなに都合よく、女学校時代の友人に会えんだろ」と正直めっちゃ思うけれど、逆に誰もその後出てこなかったら、「あの人たち、あれっきりなの…?」と思う気もする。
したがって、その再登場を心待ちにする気持ちもあるし、でも、リアルじゃないよな…という気持ちもあるのである。

見方を変えてみる。
映画や演劇において、登場人物が限定されるのは一般的である。
次から次へと登場人物を出せるのは、より多くの人をキャスティングしてお金を払える場合である。
基本的には決められた予算の枠内でキャスティングを行っているのだろう。
また、演劇は客演という方法も取れるだろうが、基本的には劇団員だけで優れた作品を作り上げたいのではないだろうか。
動員できる人数やリソースという点で、すでに限定されることになる。
どうしても作品の中で登場人物が足りないときには、自然な形で一人二役にするとか、声だけの出演にするとか、工夫をしながらこなしていくのだろう。
この意味で、登場人物の制限というのは、それ自体が極めて意図的であり、戯曲的であると言えるのではないだろうか。

私はこのような戯曲的な側面を批判したい訳ではないし、むしろ好ましいとさえ思う。
先に述べた通り、制限がなければ締まりのない、もたついた、つまらない作品になりそうだし、制作側の創意工夫の見せ所がない。
けれど、この側面に対して、強い違和感を覚えるようになったのは確かだ。
「ここでこの人登場するの偶然ってレベルじゃないし、意図が強すぎる!」
ってなってしまう。
おそらく私は、現実は物語ほどにぎゅっと濃縮されたドラマチックなものではないし、もっと緩やかでいつまでも終わらないものだと思ってしまうようになったのだろう。

それってつまらないなあ、とも思う。
自分の人生にも、もっと制限を加えていくべきなのだろう。
ネガティブに聞こえるかもしれない。
けれど言いたいのは、今この場所で出会う人たちや、これまで出会った人たちとの繋がりを大事にしようということだ。
言葉にするととても陳腐な結論だが、ここまで考えてきてたどり着いた結論なのだから、私にとってこれはとても重要なことなのだと感じた。
もたついた時間を生きながらも、それをどれだけドラマチックにできるか。

何この自己啓発感やばい結論。でも真理…。

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