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都市の記憶・土地の記憶・街(人)の記憶

大阪をこれからもっとよく知るために、その場所が宿す記憶を分類してみることにした。タイトルのように3つに分類した。
今回、それを考えるきっかけになったのは、この前の大阪歴史博物館への訪問と、先輩が送ってくださった高松の昭和から令和への変遷をたどる動画だった。

白黒やカラーの画像や写真が残っていて、昭和の時代を生きた親世代がまだまだ健在であるからこそ、実感を伴いながら比較することができる。
特に私は、高松駅や高松築港駅周辺の変化と、瓦町から常磐町、田町周辺の変化に興味を持っている。それは、香川・高松に住んでいる人たちから聞いた話の中にも、たびたび出てきた話題だからだ。
高松築港駅には立派な駅舎があって中華料理屋にご飯を食べに行っていた、というのは私がこの前まで住んでいた地元の理容室の方に聞いた話だ。
また、常磐町や田町周辺にはいくつも映画館があって、一日中映画を見て過ごすことができたという話は、高松に来てから何度も聞いた。
この前の先輩方との高松散歩で、ど迫力の映画なのにスクリーンの幅が足りなくてはみ出していたということまで教えてもらった。
というわけで、私たちはその街の変化を、元々住んでいた人たちから、つぶさに聞くことができる。話し手のその場所で過ごした記憶が、喜怒哀楽の感情を伴って私たちの中に流れ込んでくる。すると、都市化して平均化されたその土地から失われた人々の活気や賑わいに、よそ者ながら浸ることができる。
もちろん、私にも地元の高知の記憶があり、帰省するたびに、「ああ、変わってしまったなあ」とか「便利になったなあ」とか感じるので、場所が変わればその語り手になれるのである。
ある意味、「便利さ」や「都市化」に対する批判にもなるので、普段意識しないそれらを可視化し構造化することにもつながる。
このような場所の記憶を私は「街(人)の記憶」と呼ぼうと思う。それは、ここまで述べてきたように、近現代的で、それをよく知る人たちの話や、写真や画像といった視覚的な媒体によって、実感を伴う形で知ることのできるものである。

さて、「街(人)の記憶」についてはぼちぼち書いたので、「土地の記憶」と「都市の記憶」については簡潔に述べる。
「土地の記憶」とは、中世・近世的で、今もなお土地や道そのものが宿している記憶と言えるだろう。
大阪にはたくさんのお堀があるが、商都おおさかになる過程で堀割がなされていったものが今も残っているということだ。(大阪歴史博物館の9Fの展示からかじったものだが、いずれきちんと整理してから書こうと思う。まだよく分かっていません)
前にも書いたが、高松にいた時に先輩たちとした散歩は、高松城の外堀があった場所を巡るというコンセプトで行われた。外堀に沿うように兵庫町〜片原町の商店街が展開し、この地は昔から栄えていたに違いないと思わされた。また、国道からそれる形で路地に入り込んでいく謎の小さな道が実は外堀の跡だということも分かった。
このように、土地や道は中世・近世的な記憶を宿しており、それは古地図を通してだったり、「何だここ?」という疑問だったりから見出されるものだった。
最後に「都市の記憶」である。
前提として私は「都市化」=「平均化」のような文脈でよく述べるけれども、ここでの「都市」は必ずしもそのような意味ではない。むしろ、古代にルーツを持っていて人々がそれを誇りに思い、「都市」を「都市」たらしめている文化や歴史のような意味で使っている。
それはもう旧跡や旧址、遺構としてしか残っていないが、古来より「これは絶対に残していかなければならない」と意識されてきたものである。「古典」も多くの人の目に晒され、淘汰された上で残ってきたものだから「古典」たりうるのであるが、まさしくそのようなものが「都市の記憶」と呼べるのではないだろうか。

これが自分なりにまとめてみた3つの分類である。「都市の記憶」「土地の記憶」「街(人)の記憶」、このように構造的に捉えてみることで、大阪のことをより重層的に知れるのではないかと思っている。

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