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笑ってよ

滅多に通らない裏道だったが、意識して通るようになった。
あるお屋敷のせいだ。

メインストリートの商店街は、駅に近づくにつれてわさわさしてくるので、人混みを避けたい時は裏道を通る。
裏道を行くと、駅まで目と鼻の先の、線路際に程近い所に、そのお屋敷はあった。
大邸宅ではないが、すぐ近くの住之江神社に負けないくらい古びている。

塀沿いの細い道を通ると、広い庭を隔てて庭木越しに、縁側のある部屋が見える。
障子が開いていれば、仄暗い室内が垣間見える。
ソファのような車椅子のような椅子が、影の如く浮かんで、少女にも見えるうら若い女性が座を占めている。

白いけれども暗い横顔。
時にこちらを見ていることもあるが、無表情で闇のように暗い。
彼女のことやこのお屋敷のことを変に憶測すると、妄想の沼に嵌って、出られなくなりそうな気がした。
余計なことは考えないことにしよう。

それでも、できれば彼女を見たいという願望は消えなかった。
ちょっとした運試しのつもりで、そこを通る時に彼女に会えるかどうかを楽しむことにした。
障子が閉まっていたり、障子は開いていても、彼女がいないこともあった。
彼女に会える確率はほぼ、三度に一度ほどだった。

ささやかな楽しみにだって、ささやかな追加オプションがあっていい。
見えるだけでもいいが、せめてこちらを見てほしい。
こちらを見るだけでもいいが、できれば笑顔を見せてほしい。
僕に対する笑顔でなくてもいいから…

彼女を発見してから、3カ月が過ぎた。
その日の午後、そこを通ると、障子は開いていた。
彼女も座っていた。

しかも僕がそこを通ると、待っていたかのように、彼女がこちらを見たのだ。
そして、にこりと微笑んだのだ。

そんなはずは無かった。
単なる偶然だ。
彼女は多分、通行人には関心が無い。
関心があるとすれば、庭の中か、そこに来る小鳥くらいだろう。

こちらを見たとしても、僕を見ているわけではない。
微笑んだとしても、僕に対してではない。
それでいいのだ。
それだけでもう十分だ。

それは昨日のことだった。
きょうもまたあの笑顔に会えるだろうか。
会いたい。

お屋敷の前の細い道を通る。
障子は開いているが、彼女はいない。

同じ道のごみ捨て場と思しき場所に、粗大ごみや小物金属が出ていた。
その中に、等身大くらいの大きな人形もあった。
600円の粗大ごみシールが、背中に貼られていた。

顔を見る。
あの少女だ。
笑っていた。

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