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【ブログ_オタク】商業化するアニメと現実の狭間での煩悶

どうも、たこやきです。

唐突ですが、私は学生の頃からアニメ・2次元界隈が好きでした。
しかし、その「好き」に対する変化があったのでブログにしました。

先日、本棚を整理していたら、「映画を早送りで観る人たち」を手に取りました。調べたら、2022年にアマゾンで買っていたみたいでした。

①鑑賞から消費へ
第3章「失敗したくない人たち」では、個性の呪縛と「タイパ」至上主義が描かれています。Z世代の視聴者の特徴として、SNSグループの共感強制があるみたいですね。そのグループの「話の話題」としてニュースやドラマ、そしてアニメがあり、膨大にある作品を見るために倍速視聴をしている、というものです。LINEの既読済のように、私はこの作品を「視聴済」というラベルを貼る。

そんな中、自分の趣味に忠実で真っ直ぐなオタクに憧れる一般人もいると、この本は展開しています。ここらへん、朝井リョウの「何者」を思い出しながらブログを書いています。。

②昔を思い出す

日本のアニメ文化は、今でこそ熟成して「商業化」展開されていますが、電車男とかの平成時代は根暗なオタクが見るメディアという社会的地位でした。友達とカラオケに行っても、軽々しくアニソンを歌うことははばかられて、無難な流行っている歌を歌うしかなかった。歌えば、「ええオタクじゃん」と白い目をされた、そんな時代です。


③世代間ギャップと私の煩悶

アニメという切り口で、私の煩悶を客観的に箇条書きにしてまとめました。

社会的圧力と個人のアイデンティティ 昔は、社会的圧力により、アニメファンは自分の趣味を隠す必要がありました。これが自己表現とアイデンティティの形成に影響を及ぼし、内面の葛藤があった。

自己と文化の関係性の変化 昔はマイナーだったものがメインストリームになると、それに対する個人的な感情も変化した。

文化の商業化と純粋さの喪失 文化が広く受け入れられると、しばしばその純粋さが失われると感じられる。商業的な要素が強調されると、もともとの文化に対する愛情とは異なるものに感じられた。

▷イメージは、推し活していたアイドルが結婚発表して、純粋に大切にしていた何かが壊れたオタク男性の心境です(笑)。

④現実と虚構の境界線

オタクに憧れる世代という著者の言葉がありました。

アニメオタクになるって、現実と虚構の境が曖昧になる、「やばい」状態です。現実よりもアニメや2次元の方にリアルを感じてしまう、中毒者です。それを、フランスの哲学者の言葉を借りて説明するなら、ジャン・ボードリヤールの「シミュラークルとシミュレーション」があります。

シミュラークル
現実を模倣したものではなく、現実の代わりとなるような模倣物。ボードリヤールによれば、シミュラークルは現実を再現するだけでなく、それ自体が新たな現実を作り出します。

シミュレーション
現実の模倣や再現を超えて、現実そのものを置き換えるプロセス。
ボードリヤールは、シミュレーションが現実と区別がつかないほどに進化し、本物と偽物の境界が曖昧になる。

ハイパーリアリティ
現実よりもリアルであるが現実ではない状態を説明します。この状態では、模倣物が元の対象を超えて、自身が新しい現実となる。


⑤まとめ

鑑賞から消費へ、商業化したアニメを視聴しながら思うこと。
アニメ・2次元の世界が、私にとっての「現実」の一部となり、その結果、現実世界とアニメ世界の区別が曖昧になり、感情の混乱を引き起こしているのです。ボードリヤールは、メディアによる意味の消失を指摘しています。私のアニメに対して感じている煩悶は、かつての愛着が持っていた意味や価値が、商業化や社会的な変化によって失われているのかもしれませんね。
(あるいは、私自身の加齢による価値観の変化かも?)

これは、かつての情熱が現代の文化的変化の中で形を変え、新たな形での理解や再評価が必要になっているということでしょう。。。
ブログに書いてみて、自分自身とこの文化との関係を再考するために記しました。文化が進化するにつれて、視聴者の感情や価値観も変化し、新しい形の愛着や関係性を築くことが求められているのでしょうね。

そう己を納得させながら、今のアニメを見ています。

SNSの発展で、事前に「良作・駄作」という情報を持ったうえで視聴することが当たり前になりつつあるコスパの世界です。

寝不足気味に、深夜にテレビのボタンを押して、三倍速録画した。
教室の隅でアニメ本編も然り、TVCMの感想を話し合った世界は、古き良き思い出として仕舞いました。

脳を癒すために、またアニメを見ます。。
推しの子、最高!!!

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