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12月31日(記憶の田舎と、失うことの苦しさ)

田舎とは果たしてどこにあるだろうか。
僕たちの意識の中に「田舎」がある。幼少期の記憶でもあり、自分が青春を送った時代の記憶でもある。
26歳の今過ごしている場所は、僕が40代くらいになったときに「田舎」になっているのだろうか。

僕の原風景のひとつは、山梨にある。チェーンのファミリーレストランやスーパーマーケットや家電量販店がある。昔もあったかもしれなかったけど、僕の記憶にはあまりない。
その「なにもない」という記憶とともに僕は育ってきた。
いま、そこにいくと、東京やその周りの地域とそう変わらない景色が広がっている。
新しい道路がたくさんできて、便利になっているようだ。

また別の原風景は、千葉にある。
久しぶりに行くと、昔と変わらない幹線道路が続いていて、少し安心したような心持ちになる。
駅の周辺はだいぶ再開発が行われて、全く別の街になってしまったように感じる。記憶を頼りに、路地に入っていくと、記憶の中と変わらない街の風景が広がっている。

最後の原風景は池袋にある。
池袋との付き合いは長い。目を瞑っても街を歩けるような気がする。
だけど、ここ数年は生活地域から離れてしまったせいで、また別の景色が見えるようになってきた。
東京は、街の移り変わりがあまりにも早すぎる。

場所や空気が僕の記憶を作っている。
建物が取り壊されるのは一瞬だ。店が潰れてしまうのも一瞬だ。そこで生活を送る人たちにとっては必要なことなのかもしれない。
でも、記憶を支えにしている人にとって、その変化はとても受け入れ難いものになることもあるのではないだろうか。
少なくとも僕は辛い。
記憶も一緒に取り壊されて、それは二度と戻ってこない。

人生には、ある時点で、ある限度を超えると元に戻れなくなるという瞬間がある。
その壁を超えてしまうと、もうあとは、薄れる記憶と、街の変化による加速的な消滅を待つばかりだ。
黙っていても時間は過ぎていく。毎日の忙しさに紛れて、そういった記憶はどんどん失われてしまう。
失い続けるということが、生きるということの一つの意味なのかもしれない。

失うということに苦しみながら生きているのは辛い。
時々、テレビのバラエティ番組を見て、仕事の愚痴を言って、イイネを付け合いながら、何も考えずに、何も感じずに、流されるような人生を送ることを考える。
それはそれで、幸福な人生なんだと思う。僕はとても羨ましく思う。
気がついてからは、気がつく前にはもう戻れない。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。