11月17日(PS5の転売について考える)

※この件に関しては様々な見解があると思いますが、あくまで個人の考えです。

プレイステーション5が発売になって、抽選が行われ、転売屋が殺到したというニュースがあった。

このニュースでちょっとした会話になったことが、僕の心に残った。
僕は転売について、「法に触れない範囲の転売制限に関しては、企業努力で自主規制する以外に方法はなく、且つ、販売側が転売対策の責任を負ったほうがいいのではないか」「権利の転売に関しては、かなりグレーなのではないか」というくらいの考えしか持っていなかった。

今自分でも書いていて思ったのだけれど、なんてつまらない、他人事の論理なのだろう。
僕はこんなことをひとしきり説明した後に、
「欲しい人が全員、自らが値付けを行った金額で(妥当と思える範疇の)、手にすることができない、もしくは手にすることのできる権利を剥奪されているのならば、やっぱりフリマサイトも転売屋も悪なのではないか?」と問われて、返す言葉がなかった。

つまりこういうことだ。
「幸せな世界がそこにあるのに、なぜみんなそこを目指さないのか?」
と問われている。

ビジネス的な観点や、法律的な観点で「正しさ」みたいなものはいくらでも考えることができる。
でも、単純に「みんなが純粋に幸せな世界」を考えるのも、それが実現するかどうかは別にして、思い描く方が大事なのではないかと思う。
そもそも「実現可能性」なんてものも、ケチな考えなのではないだろうか。

僕は仕事をしすぎて、頭が固くなってしまったのだろうか。
こんなことも一つの選択肢として考えられない自分に辟易としてしまった。
「感情論」なのかもしれない。それは、論理の世界と分けて考えないといけないものなのかもしれない。
でも、そういう世界があって、その中から出てくる「幸せな解決策」を見逃してしまうのはもったいないと思う。

論理を辿っていけば、真理により近づける。でもそうじゃない時もある。
自分の魂に従って、物事を考えないと、論理を辿るだけの他人事野郎に陥ってしまう。

そんなことでひどくおちこんでしまっていた。
社会で精力的に活動していると、社会的な物差しが身に染みてしまう。自分との対話ができなくなってしまう。

天気予報を見て明日の行動を考えてもいいけど、雨が降ったらそれをそれとして楽しむ心を無くしてはいけないのではないだろうか。


誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。