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現実の苦しさに押しつぶされそうになる

時々、昔のことを滝のような勢いで思い出すことがある。
昔、とはいっても幼稚園くらいの小さい時のことも、つい数日前のこともある。
思い出してしまうのは自分が失敗したり、選択肢を間違えてしまったときのことが多い。

過去は変えられないと、頭では分かっていてもなかなか受け入れられない自分がいるのだろうか。
家で1人でいるときに、会社を出て1人になったときに、ふと、過去が蘇ってきて苦しくなる。

一度考え始めてしまうとそれだけで頭がいっぱいになってしまう。ひとりでいるのが嫌になって、ほかのことに夢中になろうと思って、出かけてみたりする。
別のことに気を取られて少しの時間忘れることはできるけど、無意識の何処かでは常にずっと考えているせいか、疲労してしまう自分がいる。

例え選択を間違えて失敗したとしても、それを受け入れて生きていかないといけない。
それがわかっているから、行動するときは死ぬ気で最善を選べるようにしている。
それでも、明らかに間違えていると分かっている時でも、それでもそのまま間違えた選択肢を選ぶしかない時もある。その後に起こるいろいろな苦しさをはっきりと自覚した上で、間違える時がある。

社会学者の宮台真司さんが言っていた言葉がすごくわかりやすかった。
「男女が2人きりの空間でお尻を触ってもそれは愛情表現だけど、電車でそれをやったら痴漢になってしまう。」
大体こんな感じのことを言っていた。

社会的な現実と、個の中で起きている現実の間にはズレがある。
本当は社会なんか存在していなくて、個の中で起きている現実の方が本当の世界だと思う。
だからこそ、社会的な現実に個を持ち込むと、こういう間違いを選択して苦しまなくてはならないということが生まれてしまうのだろう。

それでも、後悔することが分かっていたとしても、全部引き受けようと思うんだけど、それは本当に苦しい。
時間が経てば、だんだん安らいでいくという単純な話でもない。だから、過去がフラッシュバックしたりするのだろう。

そういう苦しい時期に入ると、連鎖的にほかの選択肢も間違えてしまう。「やっちまった。。。」というふうに自覚して初めてそれが「自傷」的な行動だったとわかる。

だから余計に、惨めな気分になってしまう。
自分の選択を引き受けるというのは簡単なことではない。過去の間違いを、全部、余さず、抱えながら生きていくのはとてつもなく苦しいことだ。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。