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2-14 専門職としての教員とは

東京学芸大学に在学中に感じたことなどを綴っています。

前回は 

 今回は、東京学芸大学などの教員養成系の大学の根幹とされる、専門職としての教員について、教員養成系の学部、大学院に所属した中で感じ、得た考え方について述べます。


専門職養成について


 専門職養成の例として、医師や教員の養成がよく挙げられます。

 医師の養成の制度は、国によって総数などがコントロールされています。これは、養成の為に国費が間接的に支出されているからです。

 国公私立に関わらず、トータルで1人あたり数千万円もの費用を国費で支出している計算になるとの試算もあるそうです。これが本当ならば、国が費用の面で養成制度をコントロールするのも仕方ないのかなと思います。

 それに比べ、教員養成は遥かに少ない支出しか行われていないにも関わらず、国立大学については医学部と同様に、常に国に養成制度をコントロールされ続けています。

 しかし、戦前の師範学校の時代も含めて、国にコントロールされた教員養成制度の下でも、意図とは違った様々な人材が少なからず輩出されている事実は、教員養成自体の内包する、他の養成制度との差異と考えられます。

 入学の時点ですでに厳しい選抜が行われ、6年間をかけて医師としての適性を技術力はもとより内面も問われ続けるのが医師の養成です。

 それとは対照的に、適性自体がかなり相対的で多様な型がある為に、技術力以上に、常に良い教員になるにはと、主に内面で悩み続ける割合が高いのが教員の養成です。悩むが故に、教員以外の道を模索する学生も出て来るのでしょう。

 国が教員養成をコントロールする必然性に疑問が残ります。


専門職としての教員


 より良い教員の養成を意図する知識や技術、実習などの、光に当たる教育の部分も重要です。

 しかし、専門職養成主体ではない一般の大学・学部では当たり前である、多彩な教員や学生との交わり、日常の経験や学生のパーソナリティなどから自ずと生み出される、影に隠れている教育の部分が、他の専門職より養成に大きな影響を与えるのが教員養成であり、より多様性を生じやすい原因と考えられないでしょうか?

 多様性が存在する事こそ教育の本質でもあると思いますし、それが教員養成自体にフィードバックされ、「優れた」ではなく、「より良い」を目指す教員を生む源泉になるのだと思います。かなり個人的な感想ですが。

 専門職としての教員は、専門が故に多様性を孕む、二律背反を宿命づけられた専門職。私はそう思いたいです。


追記:因みに、教員に関する総定員による抑制自体は2005年に撤廃され、直接的なコントロールは無くなっています。しかし、国立大学については国立大学法人化の流れの中で、法的・経済的には様々なコントロールが残されており、完全な自由化には至っていないのが実情です。


次回は




 

 

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