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競争社会と正反対に位置する売春と一切から降りる事について

皆さんも漫画等を読んでいて、こういったシーンに出会う事は多いのでは無いでしょうか?

例えば高校野球や将棋といった物語で、プロ将棋士がアマチュアに負けてしまう。プロがアマチュアに聞く、「なぜ将棋をやってるの?」かと。

アマチュア棋士は「遊びで」と返事を返す。当然プロ棋士は怒る。「遊びだと?ふざけるな!!!どれだけの人たちがプロになりたいなりたいと言ってなれなかったか、その重さを......」

勘弁してくれ!その説教くさいドラマを辞めてくれ!

と、思わず私は腹立たしくなる。高校野球にしてもそうですね、「生半可な奴は部活を辞めてくれ!」と言われ、趣味や遊びでやっている人達は蔑まれる。

しかし、学校から受験や仕事、スポーツや趣味に至るまで、どこでも競争は行われ、さらに競争というのは勝者と敗者の美学で成り立っている。勝者の裏には敗者が存在し、敗者が無ければ勝者の栄光も存在し得ないという美学。
しかし、この馬鹿馬鹿しい競争から、社会から降りたいと思った時、人はどうすれば良いのか?


社会は競争で成り立っていますから、学校のようにお手手繋いでみんなでゴールとはいきません。尤も、“お手手繋いでみんなでゴール”を私は肯定している訳でも有りませんが...

売春という仕事はその意味で競争という責任から解放されています。
現代の日本において、自分の170cmの体を横たえる場所にすら困るというほど競争社会は激化していないので、人間なろうと思えば物乞いにだってなれる。
管理売春の場合ある程度店への責任は生じ、誰が指名を多くとったか等の競争こそ生じますが、しかしここでも基本的には客と自分という一対一のルールしか存在しないのであり、ここでは買う方も売る方もウィンウィンの関係になっています。

社会で起きてる馬鹿げた競争や、それに伴う責任から逃れたいと思った時に、風俗で、乃至は個人売春で金を得ること、これを私はオススメしたい。

なんせ、売春ほど無責任自分勝手個人主義アナーキーわがまま素晴らしい職業は無いのですから。売春が競争社会に対して正反対の位置に属していると書いたのは、以上の理由に依ります。

ところで最近よく「誰も傷付けない漫才」といった言葉を聞きますが、それなら「誰も傷付けない売春」としての仕事も有りなのでは?売春が競争社会の真反対の位置に存してると言うのは、次の言葉に集約されているように思えます。

売春は全く敗者を出さない、だからこそ勝者も存在しませんが、しかし自分自身にさえ責任を取れていれば、一切の責任を拒否し、社会の馬鹿げた競争から降りる事、将棋を遊んで指しただけなのにプロから怒られる馬鹿馬鹿しさや、楽しんで高校野球やってただけなのに「甲子園目指さない奴は今すぐ部を降りてくれ」と言われる侮辱、これら競争の倫理、勝利の美学の一切の拒否としての売春や風俗。これに誰が文句をつけられましょうか?

もっとも、先程にも書いた通り、売春でも管理売春、店内であれば妬み嫉みや責任も起きます。そこで面白い実体験を一つ挙げると、

風俗店の先輩から「もっとちゃんとプロとしての自覚を持ちなさい!」と怒られた事が有りました。

いや、そうは言ってもあなたの客を取った訳でなし、俺は俺の客を満足させたんだから良いだろうと。リピーターも付いてるし...と。

しかし、売春にプロとしての矜持を持ってる先輩から言わせれば「ふざけるな!」となるらしい。(尤も、私にはコンビニのバイトリーダーが店を思って後輩にキツく当たるのと同じ滑稽さしか見えませんが...)

これは先程挙げた将棋の漫画と全く同じ例で仕事に対して遊ぶな!」と言う事になります。ただ、売春にプロ意識をもった先輩が後輩を怒るということ、これは分解すれば、風俗や売春の為にお前のように遊んで仕事する風俗嬢がいられると迷惑だ」という事になるでしょう。(先輩は風俗店の経営者でも無ければ社員でも無いので、まさか「店の為に」とは言いますまい。)

ここが売春とプロ棋士との違いで、プロ棋士は国に認められた仕事ですが、売春婦は国に認められていない仕事です。であれば、先輩がプロ意識をもって「風俗や売春の為にお前のように遊んで仕事する風俗嬢がいられると迷惑だ」と言う事は全くの無意味になる。そんなに風俗や売春の事を大事にして仕事しているのであればお国から表彰状でも貰えば良い。きっと褒めてくれるでしょう。

しかしおかしいのは、売春婦が客を誘う際に「仕事していかない?」や、「愛していかない?」などではなく、「遊んでいかない?」と呼びかけるのが常です。(繰り返しになりますが、次の意見も売春が競争社会の正反対の位置に存してる良い例です。)

ならば、風俗嬢にプロやアマなぞ存在せず、売春というものは仕事ではなく遊びであると言い切っても良いでしょう。売春は遊びだからこそ一切の責任から逃れられるのだと。


しかし、社会の馬鹿げた競争から降りたくても、風俗店や個人売春で働けない人もいるでしょう。その際どうすべきか?


もし、野心を持とうとせず、この世で行なわれている一切の馬鹿げた競争に拒否し、自分だけ楽に生きる事を願う人物がいたら、これは社会的に糾弾されるでしょう。
身勝手、無責任などというレッテルを貼られ、「私達はこの社会の中で競争しているのに貴方だけ降りるのは許されない!」と(社会に生きている人が)権利をもって糾弾してくるでしょう。

精子が何億という競争の中から勝ち残ったように、または動物達が縄張り争いするように、私は競争は人間の本能だと思っていました。だが違うらしい。ここまで社会が成熟して、人間がもう競争しなくても良い、充分暮らせるとなった地点が、今まさに来ているのです。


この遊びで将棋すら指せない社会から、競争から降りるという事は、実は人類から降りるのと同じ事で、人類から、社会から降りた者にとって、待っているのは死者の世界か、自分が透明人間になるという事しか意味しないでしょう。そしてそれは社会と繋がっている人達にとって「お前だけなんで社会から降りてるんだ、無責任だ!甘えだ!」と怒るのもなるほど当然でしょう。

しかし、そんなもんクソ食らえ!社会から、人類から降りて何が悪い!

勝者の裏には敗者が存在し、敗者が無ければ勝者の栄光も存在し得ないという美学なんぞクソでも食らえ!てめえらの競争の倫理なぞ勝手に押し付けるな!


こう考えた場合、もはや私達にできる事は一つしかないように思えます。絶対にこの世の中で起こっている全てを真面目に捉えない事

人類や社会から逃げたり、降りたりすると何故私達は怒られ蔑まれるのかは、もう充分説明したと思います。

しかし、私は社会や人類から逃げたり降りたりしたけども、人生からは降りてやしない!


自分の人生は自分で決めろ」だの「少年よ大志を抱け夢を持て」だの言わないよ、どうなったって良いよ、全部成り行き任せで勝手に生きりゃ良い。

勝手に生きるのは難しいし、どうしたって責任が伴うし競争にも巻き込まれる。

けれどそんな馬鹿げた競争社会に自分の人生を捧げるな全て真面目にとるな。

その繰り返される自己確認の為にだけにノートを見れば良い

もし疲れて人類から、競争から、社会から降りようとしてる人全てに、これを読んで貰いたい。人生さえ手放さなければ逃げようが降りようが結構だと!勝手にしろと!出来れば売春や肉体労働が良い、最低物乞いでも良い。

その将棋の漫画には「プロ棋士は片道切符の新幹線と同じで降りる事が出来ない」なんぞ書いてあったが冗談言うな降りれるよ。降りれますよ。売春でも肉体労働でも物乞いでも暮らしていけるし現に私がそうやって生き抜いてきたんですから。

結局のところ、プロ棋士や高校野球に限らず受験から仕事等々含めて、「プロ棋士は片道切符の新幹線と同じで降りる事が出来ない」と言うのは嘘です

彼らはそこから降りる事によって肉体労働、土方や物乞いに落ちる事に関して、自身のアイデンティティや承認欲求を手放す事が認められない。だからこそ「プロ棋士は片道切符の新幹線と同じで降りる事が出来ない」と言い訳し結局のところアイデンティティや承認欲求と言った問題点をすり替え、勝利の美学の倫理に浸ってるだけじゃ無いでしょうか?繰り返し言うように、売春でも肉体労働でも物乞いでも暮らしていけるし現に私がそうやって生き抜いてきたんですから。

これらの事は私が書かなくたっていずれ誰かが書くでしょう。もう人間は社会の成熟と共に競争しなくて良いところまで来ているのは事実でしょうから。

ただ、一足先に競争社会から降りた私が、「もう競争社会に疲れたよ」という人々に対してのみ、このnoteを読んで頂ければそれで満足です。

#cakesコンテスト2020

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