まり子さんに赤い毛糸の帽子を送りたい 4

あれは何だろう。そこだけぽっと陽が差して、なんだか温かそうだ。ちいさなチリがふわふわと舞って、きっといい香りがする。

ああ、これは日だまりだ。足元を緑が覆い、黄色の可憐なタンポポ、ハコベラ、オオイヌノフグリ。木漏れ日の作り出すギザギザの斑紋が、きやきやしている。

野太い脚がみえた。

光と影のフラクタルを身にまとって、まり子さんが踊っている。短く生えた芝をむしりとって、雄たけびをあげながら。四つん這いになって飛び跳ねて、ふわふわと舞う蝶を追いかけている。薄汚れたスカートの裾が、重みのわりに軽やかにまっている。

まり子さんは楽しそうだ。私のいるところは冷たい。冷たくて暗い。暗くて、遠い。ここはどこだろう?よくはわからないのだけれど、錆びた鉄の鎖のにおいがして、体の中に鉛を抱え込んでいるようだ。鼓動もなく息もせず、眠っているわけでもない。

目が覚めた。年が明けて2日目の朝だった。小杉さんと初詣に行く日。

支度を済ませて家を出る。お正月の私の街は、氷の中にいるように、とっても静か。動かないけど、眠っているわけでもない。

川崎駅で待ち合わせする。改札前の筒状の広場いっぱいに、人が歩いている。動いてはいるけれど、私にはなんともよそよそしくみえる。薄い皮膜に包まれて、私は水槽の内にいるみたい。あの人たちは、多分、水槽を通り過ぎるお客さん。 

改札を出てすぐの時計台の前の端っこで小杉さんを待つ。

わらわらとした人の中に小杉さんがいた。小杉さんは私を見つけ出すと、こわばっていた顔を少し和らげて、近づいてきた。水からすくい出すかのように、声をかけてくる。

「あけましておめでとう」

挨拶を交わして歩きだした。もう間もなく、2人とも無言になる。小杉さんの顔がこわばってゆく。年末の事を気にしてるのだろう。

あんまりにも人が多いから、大師さんは諦めて南武線に乗ってみる。する事も特にないのだから、そのまま立川まで行ってしまおうかと言う話になる。

電車は狭い車道をゆっくりと走っていた。緊密に絡み合った送電線が家と家をつないでいる。

「なんだかすごいね」

「何が?」

「電線。ぐちゃぐちゃね」

「あぁ、京浜工業地帯と住宅の境界だからね」

使用電力量がちがうからね、テナント用と住宅用の電圧は、それぞれ違うのだ、と彼が教えてくれる。へぇ、じゃあ、商業ビルを建てられる場所って限られてるのね。そう答えると彼が言った。 

「逆もしかりだよ。東京は家ばかりに見えるけど、住めるところは、その実、限られてる」

窓の外には、家並みが広がっていた。住宅用の電気が敷かれる区画に、ぎっしりと詰め込まれている。電線が鎖のようにも見えて、なんだか少し苦しく感じる。私の住んでるアパートを思う。隣の人の顔すら分からず、何をしてるかも知らない。電線から電気をひいて、くらい夜に明かりが灯る。小さな部屋たちは、近くに寄り集まっているけれど、遠く離れて隔たっている。

これは、本当に家なのかしら?

東京に家が持ちたいな。ふいに小杉さんが口にする。それは素敵ね、と目を合わせずに答えてみる。彼のため息が聞こえた。口を固く結んで目を伏せたのが背中越しになんとなくわかる。

私たちにとって家と呼べる場所は、多分、研究室だった。研究棟の7階の隅の部屋。その部屋の端で、私たちは、好きな事をして過ごした。なにか、昔と今をつなぐ何かに、しっかりとつながっている気がしていた。平たい言葉で言えば、伝統というやつだと思う。古いページをめくる時、私は私ではない誰かの手の感触を感じ、誰かの見た文字を追う。無数にある感触の中で、一番確かだったのは、あなたの手であり、視線だった。 あの場所は、もうない。

「いつまで非常勤をやってるつもりなんだ?」

いつのまにか、陽が傾きはじめている。薄い橙に染まる空をぼうっと眺めていると、小杉さんがそんな風に聞いてきた。言外に、もう辞めたらと言うのがわかる。何かしたいことはないの?これからどうするつもり? 小杉さんがたたみかけるように話している。

先生になって、小杉さんはちょっとつまらない人になった。小杉さんは、ある意味で、自分の限界とかすべきと言われていることがよく見えている。そして、私のこともよくわかっている。

東京に住む私たち。可住域に詰め込まれてた無数のアパート。発電所からくる栄養を吸って、地中の蝉の幼虫みたいにうずくまっている。鼓動もなく息もせず、眠っているわけでもない。

小杉さんが、一生懸命に話している。さて、何か言わなくちゃ。私はどうしたいのかしら。

「まり子さんになりたいなあ」

同じ姿勢でいるのが疲れたので、うーん、と伸びをして、ついでにそんな風に答えてみた。でも、適当に答えを出したのではなくて。本当にそう思ってるの。










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