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書くラジオ「自分など置き去りにして話すこと」

僕は大学の友人の小島とラジオをしている。内容としては、主に僕が日常の中の出来事から考えたことを話している。

前回のラジオで僕は小島に「お前最近暇だろ?」と言われた。小島は僕のラジオでの話でそう思ったらしい。確かに、僕は現在、暇で時間がたくさんあった。時間がある分悩んでしまい、独りよがりに頭でグルグルと考えてしまっていた。そんなグルグルになって考えてしまってることも小島に指摘されたのである。

僕はラジオで話す時は、普段の生活をそのまま出しているつもりはなく、大枠だが頭でまとめて用意したものを話していた。けど友人の小島には僕の話から普段の生活やその話の背後にある考えが透けて見えたのである。僕は話すことで、こんなにも自分の生活や考えが見透かされるんだ思った。顔も見せずにラジオで話しているだけなのに、僕は話すたびに、その場で1枚1枚服を脱いで自らの裸を晒していく気持ちになった。もう何をどう言っても僕の現状は変わらず、弁明や別の話をしようとすればするほど、さらに自らの現状をより浮き彫りにしていくだけであった。

自分の話から自分の最近の生活やこれまでの考えというのは顕になっていて、他者からはその話で分かってしまうことがあるのだと思った。話1つでその人を定義づけれるとかカテゴライズできるかという話ではなく、話1つでこんなにも自分の日々の生活やこれまで考えてきた事が滲み出るんだなという話である。それは話でなくとも、ちょっとした振る舞いや些細な発言でも同じである。

僕たちはなんらかの指標や評価軸を待って他者を計ろうとするが、そんな指標や評価軸以前に分かってしまう事が多くあるのである。そう思うとワクワクするしゾクゾクもする。自らを蔑んだり、見栄を張ったりしても仕方ない、ただ生い茂る草木のように自らが立ち現れる平面があるんだなと思った。これまでやってきたことがただただ露わになる平面。逃げも隠れもできない、何かこう、単に形だけがある平面。

ラジオでの自分の話がそのまま平面という話ではない、今回の小島の指摘でその平面を一瞬、覗いたのである。もちろん、その平面が全てではないし、その平面だけで簡単に他者を判断できるわけではない。

この話を踏まえて、僕が思ったのは、内容や自分という存在ではなく、どう語るかで自分を伝えるのも重要なんだなということである。お前が誰であるかなんてどうでも良くて、お前が何を話すかが重要になる場面があるということだ。自分がどうであるかは一旦置いといて、何を話すかに集中して、その後の自分に興味を持てばいいと思った。自分など置き去りにして話し書くことを考えた。次のラジオを試してみよう。

これの元になったラジオです!是非、聴いてみて下さい!

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