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書くラジオ「自分が上手くいってないだけなのに何かのせいにする自分に腹が立つ」

僕はラジオで現在ある基準や主義やルールを変えようと話すことが多い。

今回のラジオではざっくりと資本主義ではない主義は可能なのか?と言うことを話していた。しかし、内容が薄く、ただ今あるものがダメだと言ってるようだった。ラジオの相手である友人の小島にも解像度が低いと言われた。

僕は、現在、自分の状況に上手くいってないと感じている。売れてない、金もない、したいことが出来てない、他人の生活が羨ましく思えている、かつ、売れてないため時間はたくさんあり、SNSなんかで他人が楽しそうな所を見て、自分はなんて楽しくない日々を送っているんだと思ってしまう。冷静に考えたら全然そんなことなく楽しい日々であるのに、僕は、そんな自分の現状と向き合わないために、自分の満足いってなさを社会のせいにしている。単に満たされないとも言えず、社会のせいにしているし、さらに、単に社会のせいにしていることも言えず、その社会が間違ってる事にして話すのである。間違っているから社会を変えるべきだと話すのである。その時、間違いを訂正しているから、正義面して話せて気持ちよくなるのである。いつの間にか自分の現状など忘れて、救世主にもなったようにして話し続けるのである。

自分の上手くいってなさだけを言えば良いのに。

これは社会や資本主義とかでなくてもいい、アイツがとか、親がとか、会社がとかでも同じである。実際、何かのせいにするときの何かに問題や軋轢があるのも事実だと思う。それによって理不尽な思いをしたり、悲しい結果が訪れる時もある。しかし、その外部の問題点を指摘するフリをして、自分の上手くいってなさを言うのは違う。仮に、上手くいってしまえば言わなくなるような指摘は、鼻から外部の要因は問題ではない。金持ちになれば資本主義がやっぱり良いとなるなら外部の問題意識は自らに孕んだ問題の変容である。

では、なぜ、そう言ってしまうかである。僕は自分を省みて、視点が内部を差し置いて外部にあるからだと思った。

僕は自分より楽しそうにしている人がいるこの現状を羨ましいと思ってる。この羨ましいと思っていることを、そのまま言葉にして、引受けるのではなく、この羨ましさが格差の問題によって生じているだと考え始める。格差があっても羨ましく思わない人などたくさんいるのに。そして、どうして格差があるのか、それは資本主義によるものだと飛躍して考えていき、なら、資本主義がダメで間違ってるとなり、変えないといけないという気持ちのいい救世主モードになれる。

飛躍しているから解像度が低く、羨ましいという現状がそのまま家族、会社、社会、日本、時代のせいへと繋がっていくのである。

まず、羨ましいという思いと向き合うからこそ、そう思わなくなるように生きれるようになったり、それを踏まえた上で試行錯誤できるようになったりするんじゃないかなと思う。その機会を破棄するかのように僕は何かのせいにした。環境のせいにできなかったら、自分のせいにするのである、自分なんかとか、自分の能力ではとか、自分はそういう人間じゃないとかを言って、自分のせいにするのである。それは救世主じゃなく悲劇のヒロインモードになれる、それなら一種の気持ちよさを感じながら現状に対面せずに済むのである。

この時、環境も自分も、自らの思いから見ると外部なのである。僕は外部のせいにするのである。外部の問題や軋轢には終わりがない。問題や軋轢が完全に無くなることはない、誰かにとっての平穏は誰かにとっての軋轢になり得るのだから、問題をずっと引っ張り出してきて、いくらでもせいにし続けられるのである。今の時代がダメで、ある時代が良いと言うならば、それにはもう終わりがないのである。そう言えば言うほど、そう言えるようになっているのである。

せいにするとは外部の無限性に浸り続けることである。

その無限性から出なければ、現状を受け入れることはできない。現状とは内部であり、リアルである。そこと向き合うためにせいにしない、せいにしないのは難しい、現状と直面するのは怖かったり、辛かったりする。でも、なぜ、向き合わないかと言ったら、それは面倒くさいからなんじゃないだろうか。自分の色んな思いと付き合って現状を自分でどうにかしないといけないのは、やることや考えることが増えるから面倒くさいのである。だからやらないってのも1つの手だとは思う。せいにすることをガス抜きとして使用する、それが友達などと話す愚痴とかだろう。そうやって一旦、その時だけは現状から離れられる。それはとても大事なことだと思う。僕は今、現状に向き合いたいと思ってる。もう、ただ何かを変えたいとだけ話すことはしたくない。

現状を自分でどうにかしないといけなくなるのである。自らで自らのハンドルを握り、操縦しないといけないのが大変で避けたいのかも知れない。けど、操縦する楽しさもきっとあるはずである。

何かのせいにしている限り、それは外部を見つめることで、それは今の現状の不満も同時に満足も放棄することである。辛いや苦しいや悔しいを言わないのなら、嬉しいや楽しいや心地よいも言えなくなる。楽しいと思ってるのに、あの人の方が楽しそうという理由で楽しくなくなるのである。自分の内部がすぐに外部に流れて消滅するのである。

消滅する前に、僕は辛いや悔しいを取り戻そうと思った。自分か環境のせいのどちらかのせいになってるんじゃないか。それらは絡み合っていて、完全にどちらか一方のせいではないのに。けど、何かのせいにしないと落ち着かないために、自分か環境のせいにしている。風情がなくなってると思った。僕もそうである。自分か環境のせいにしている。けどそうじゃないだろ、どちらのせいにしないためにこそ、素直に、悔しいとか、腹が立つとか、情けないって言えって。

とにかく今の自分が嫌だと言うんだ。自分に腹が立つとか、こんな自分が情けないとか、こんな自分が悔しいとか。言うんだ。とにかく。せいにする前に言う。ずっと言えって話じゃない、けど、まず言う。そらぁ、言うのはしんどいよな、言うからには現状を引き受けないといけないから、けど、自分か環境のせいにしていても、ずっとせいにし続けるだけだ。そして、それはいつの間にか、正義のためという皮を被って、自分でも制御できないくらいに話してしまう。僕はラジオで話しながらそう思った。空虚に向かって話している気がした。話せば話すほど、自分が思ってることとは遠くなっていくように思えた。遠くなればなるほど不安になり、より突っ走るしかないと思い、余計に言葉を走らせて強くした。

けど、どうにか、その無限性から抜けたいとは考えている。ずっと外部のせいにして現状から目を背けたくはない。どんな現状であろうと、リアルを生きてみたい。それは戯言なのかも知れない。また口だけになるのかも知れない。けど、現状を操縦して生きることをもっとよく深く味わってみたいのである。その入り口として、今、僕が考えるのは、素直に思いを言葉にすることだと思った。それが本当に難しいことは分かってる。それは外部のせいにして得れる安定を捨て、不安に耐えることだからである。環境か自分のせいにする前に、素直に自分の思いを言葉にする。無限に吸い込まれる前に、どうしようもない思いでも言葉にする。その炙り出した言葉は自分から削ぎ落とされているため形を持っている。それは無限へと吸い込もうとする穴を塞ぐだろう。

僕は無限に吸い込まれずに済んだ後に、形を持った思いを力一杯握りしめて、それを見つめて泣きながらもでも良いから歩いていきたい。

そう思っているが今、内部にある思いを言葉にしてみる。

「できるのかな」「怖い」「正直しんどい」「楽な方がいいからそんなことしなくていいんじゃないか?」「口で言ってるだけになりそうで嫌だ」「こうやって書くことで満足してまた逃げようとしいて悔しい」「このやり方が間違ってそうで不安になる」「自分の思いを言っても暗くなるだけだ」「分かっていてもできない自分が情けない」

思いを言うことで解決したり和らいだりするわけじゃない、けど、確かにここからやっていくしかない。この思いを受け入れて、ようやく操縦席に座れる。このカッコ付きの思いの変化を求めて、僕は形を持ったこの思いを引き受けたい。

是非、僕が外部のせいにして話して、指摘され、それに気づき嫌気が差しているラジオを聴いて下さい。

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