見出し画像

火焔土器の時代の新潟の、火焔型ではない縄文土器

口縁にそびえる立体的な突起や、器面を飾る隆帯の文様が見事な火焔型土器は、新潟のみならず全国の縄文土器の代表選手として、縄文時代にあまり関心がない人にも広く知られています。新潟県十日町市笹山遺跡から出土した「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」は、1999年に縄文土器としては唯一の国宝に指定されました(のちに長野県茅野市の国宝土偶「仮面の女神」と一括で国宝指定された土器を除く)。

一方、火焔型土器とその兄弟分である王冠型土器は、その最盛期であっても、住居跡から出土する土器のうちの1割程度にとどまります。本稿では、残り9割を占めるその他大勢の土器に注目することで、縄文時代中期中頃の新潟(信濃川流域)と周辺地域との交流や火焔型土器のなりたちについての理解を深めたいと考えます。

土器の分類

新潟県津南町にある道尻手遺跡の発掘調査報告書 [1] では、火焔型土器の時期の出土土器を以下のように分類しています。

第3類 縄文時代中期中葉(大木8a式並行期)の土器群
 a類:東北系の大木8a式土器
 b類:焼町類型
 c類:火焔型土器、王冠型土器
 d類:北陸系の天神山式土器に類似する一群
 e類:勝坂3式土器に類似するもの
 f類: その他の隆帯を施すもの
第4類 縄文時代中期後葉(大木8b式並行期)の土器群
 a類:東北系の大木8b式土器に類似する一群
 b類:主に口縁部・頸部・胴部の3帯構成からなるキャリパー形で、胴部に矢羽根状沈線が充填されるもの。
 c類:栃倉式土器
 d類:胴部の文様間に横位の沈線が充填されるもの
 e類:口縁部に渦巻文を有するもの
(「津南町文化財調査報告47:道尻手遺跡」16~26ページ)

このうち第3類c類が火焔型土器に相当します。津南町の堂平遺跡の報告書[2](本文編14~18ページ)でも、おおむねこれと似た分類が行われています。以下ではこの分類に沿って火焔型土器以外の土器を紹介したいと思います。

大木式の土器

上に挙げた土器の分類のリストのうち最も優勢な土器は、宮城や福島など東北地方の南部を中心に分布する大木式の土器です。第3類a類(大木8a式)は「キャリパー形を呈し、地文縄文・撚糸文に半截竹管による沈線文を施す」[1] という特徴を持ちます。それより新しい第4類a類(大木8b式)は「キャリパー形を呈するものなどがあり、口縁部・頸部・胴部文様帯に区分されるものが多く、頸部が無文帯になり、胴部文様に地文縄文を施す。文様は、剣先文や渦巻文、縦位・横位の波状沈線文があり、沈線文は半截竹管の背面・腹面により施される」[1] とされています。

図1 大木8a式土器の例
(津南町 堂平遺跡/引用:文献[2] 図版41, 59)

図1左の土器は、堂平遺跡の45号住居跡から出土し、展示会図録「全盛期の縄文土器 - 圧倒する褶曲文」[3] には次のような解説があります。

橋状把手が口縁部を一周して透かし彫り状を呈する。橋部分には深い溝、頂部や内側には蕨手文が刻まれている。深く沈線を刻む橋状把手は初期の水煙文土器と共通する。頸部の区画線間には波状文、胴部下半には蕨手文が重層して展開する。地中から植物が萌出し(蕨手文)、水(波状文)の恩恵を受け、やがて花開く(口縁部装飾)様子を、順に表しているのかもしれない。

「全盛期の縄文土器 - 圧倒する褶曲文」[3] 81ページ
図2 大木8a式 深鉢と浅鉢
(津南町 堂平遺跡/津南町歴史民俗資料館)
図3 大木8b式土器
(長岡市 岩野原遺跡/馬高縄文館)

冒頭で笹山遺跡から出土した深鉢形土器が国宝に指定されたと述べました。同時に指定された57点の土器のうち、火焔型土器は14点、王冠型土器は3点のみです。残り40点の国宝指定土器の大半は、実は大木式土器に位置づけられます。

図4 国宝に指定された十日町市笹山遺跡の大木式土器(1)
左:国宝指定番号21 右:国宝指定番号28
(十日町市博物館)

(図4左の土器の)口縁部の、中央に溝をもつ把手を連ねた透かし彫り状の突起も、大木8a式からさらに洗練されている。4つの突起の頂部は平坦で、渦巻文が陰刻され、その間に頂部が尖る小突起が配される。胴部は縄文を転がしたのちに半載竹管で3本一対の蕨手文が描かれる。頸部には縄文が施され、まだ無文化していないが、蕨手の端部が巻き切り、定型的な構成を取ることから、大木8b式の古段階古相にあたる。

「全盛期の縄文土器 - 圧倒する褶曲文」[3] 94ページ
図5 国宝に指定された十日町市笹山遺跡の大木式土器(2)
左:国宝指定番号45 右:国宝指定番号51
(十日町市博物館)

ここまでに図示した大木式の土器は、主に地文が縄文のものを選びました。一方、同時期の新潟の土器には、地文が矢羽根状(綾杉状)沈線文となっているものが目立ちます。上記分類の第4類b類、c類がそうです。

水沢教子氏は論文「大木8b式の変容」[4] の中で新潟(越後)の大木式土器について論じました。第4類a類に相当する土器は「文様表出技法に若干の違いがあるものを含むものの大木8b式Ⅰ段階の土器そのものである」と判定しています。第4類b類、c類に相当する土器については「器形、文様単位、文様構成は大木8b式に類似するものの、地文の種類、隆沈線、半隆起線の多用、新出の要素(眼鏡状装飾、X字状把手)という細部における差異を持っている」、しかし「越後でのこの組成、技法、文様上の変異は最大公約数としての大木8b式の定義に含まれるものと考える」(104~105ページ)と述べています。

また堂平遺跡の報告書[2]でも、第4類b類、c類に対応する土器をそれぞれ大木8b式中段階、新段階(a類はそれより古い段階)に位置づけています。結局、第4類はa類~c類まで大木8b式に入るというのが最近の共通認識のようです。

図6 大木8b式(栃倉式)深鉢
左:津南町 沖ノ原遺跡 右:津南町 道尻手遺跡
(津南町 農と縄文の体験実習館「なじょもん」)

図6の二つの土器も、地文がV字状の沈線を並べた矢羽根状になっています。また平行の隆帯の両端が渦巻になった腕骨文が特徴的です。

図7 大木8b式 深鉢
(長岡市岩野原遺跡/馬高縄文館)

図7の右の土器には、新潟の大木8b式に新たに加わった特徴である、双頭渦巻文やそれを背中合わせにしたX字状把手が見られます。

図8 大木8b式(塔ヶ崎類型)深鉢
(長岡市 馬高遺跡/馬高縄文館)
図9 大木8b式(栃倉Ⅰ式)深鉢
(長岡市 中道遺跡/馬高縄文館)

大きな中空把手をもつタイプもあります。口縁部には剣先渦巻文が見られます。図8の土器は塔ヶ崎類型、図9の土器は栃倉Ⅰ式と表示されていましたが、よく似ていて定義の違いが分かりません。これらは胴部の地文が縄文で、第4類c類の大木8b式に当たると思います。

図10 大木8b式(栃倉Ⅱ式)深鉢
(津南町 沖ノ原遺跡/津南町歴史民俗資料館)

栃倉式最盛期の深鉢形土器で、狭い口縁部に発達した中空の突起2種が交互に合計4単位配されます。中空の突起は本型式によく見られる方形の箱状突起が大小に発達したものと考えられ、小さい渦巻や貫通孔が左右非対称に配されて複雑な形状となっています。これらの中空突起の間にはさらに小さい山形の突起も4単位配置されて、本個体口縁部には、大・中・小の突起が3種配されることになります。胴部は下半が残存し、基本的には縦方向に垂下する文様構成が連続しています。文様は本資料の段階となると、平行沈線ではなく、平行沈線間が隆起して、2~3条を1単位とする隆帯で描かれるようになっています。縦方向の剣先文や、腕骨文の下半とみられる隆起した渦巻文も見られます。文様空白部は縦方向に矢羽根状となる所謂綾杉文が充填されています。このように本資料は、突起の形状や綾杉文など栃倉式の典型的な特徴がみられます。

「史跡沖ノ原遺跡」[5] 40ページ

図10の土器には図7と同じくX字状把手もあります。口縁の中空突起は一見火焔型土器と似ているように見えますが、火焔型からの継承ではなく大木式の系統内で並行して発達したと考えるのが自然だと思います。

図11 大木9式期並行(沖ノ原式) 深鉢
(津南町 沖ノ原遺跡/津南町歴史民俗資料館)

新潟の大木式系の土器は、次の大木9式の段階にも続き、沖ノ原式土器と呼ばれています。また、新潟の大木式の土器が長野にも伝わり、共通の特徴を持つ土器が作られていたことは別のnote記事に記しました。

焼町類型の土器

第3類b類の焼町類型は、浅間山麓を中心として、主に群馬から長野にかけて分布する土器です。「半隆起線文や沈線・基隆帯によって器面を装飾する。文様は渦巻文を基本とし、眼鏡状突起や環状突起・楕円区画、三叉文などが見られる。」 [1] という特徴があります。焼町類型は火焔型土器に先行し、器面を埋めつくす曲隆線文は火焔型土器の成立に寄与したと言われます。

図12 焼町類型の土器
(十日町市 野首遺跡/十日町市博物館)

十日町市の野首遺跡で出土した図12の土器は、焼町類型の中でもやや初期のタイプに属すると思います。

図13 焼町類型の土器
(津南町 堂平遺跡/津南町 農と縄文の体験実習館「なじょもん」)

図13の中央と右の土器は、図1左の大木8a式土器と同じく堂平遺跡の45号住居跡から出土しました。火焔型土器や水煙文土器とのつながりが以下のように指摘されています。

(図13中央の土器は)口縁部から4つの突起が立ち上がり、沈線で縁取りされた正円の孔が穿たれている。突起間に、U字状・逆U字状の貼付け、突起の縁にコイル状装飾もみえる。胴部は隆帯に沿う多重の沈線文で埋められている。特に口縁部に沿う沈線は、火焔型土器にも共通する要素である。
(図13右の土器は)深鉢型土器の胴中央部から口縁部にかけて縦に2つの把手がつき、把手の間を焼町式特有の八の字装飾がつなぐ。把手から伸びる突起に穿たれた円環にはコイル状装飾が貼付されている。コイル状装飾のうち垂直に立ち上がった部分は、渦巻ドーム形水煙文土器のとぐろ状の隆帯に似る。

「全盛期の縄文土器 - 圧倒する褶曲文」[3] 79ページ

天神山式など北陸系の土器

第3類d類、富山や石川に広がる、北陸系の天神山式土器に類似する一群は、「器面を隆帯や沈線で装飾し、懸垂文や胴部文様が斜めに展開しながら垂下するもの。」[1] と説明されています。北陸系の土器はさらに古い新保・新崎式の段階から新潟に入っており、焼町類型と並んで、火焔型土器の隆帯による器面構成の基礎になったと考えられています。

図14 天神山式の土器
(津南町 道尻手遺跡/津南町 農と縄文の体験実習館「なじょもん」)

地文が縄文や沈線ではなく、隆帯の流れるような文様を器面にびっしり充填する作りは、火焔型に受け継がれます。これと似た外見の土器として、南魚沼市五丁歩遺跡を標識とする五丁歩式の土器があります(図15)。土器の系統としては北陸系よりも焼町類型に近いようで、報告書[1]では第3類b類に分類されています。五丁歩式の中から、鋸歯状突起や鶏頭冠突起に似た突起を口縁にもつ、火焔型への進化途上の土器もあらわれます(図16)。

図15 五丁歩式の土器
(津南町 道尻手遺跡/津南町歴史民俗資料館)
図16 五丁歩式の土器
(津南町 堂平遺跡/津南町 農と縄文の体験実習館「なじょもん」)

火焔型土器に似た突起がつく。粘土紐による軸線はないが、上から下に流れるもようはつながっており、分帯がしっかりとする火焔型土器にはなりきっていない。

「進化する縄文土器~流れるもようと区画もよう~」[6] 50ページ

勝坂式などその他の土器

津南町の道尻手遺跡では、少しさかのぼって中期前葉(大木7b式並行期)に、中部高地(長野・山梨)の勝坂式土器や関東の阿玉台式土器の出土が多少見られます。次の段階の中期中葉(大木8a式並行期)になるとどちらも大きく数を減らすようです。

図17 道尻手遺跡の勝坂式土器・阿玉台式土器(大木7b式並行期)
左 1650, 1665:勝坂式  右 1689a, 1690:阿玉台式
(引用:文献[1] 図版30, 31)

長岡市の岩野原遺跡では、勝坂式の搬入土器が出土しています。また津南町の堂平遺跡では、関東の三原田式に類似した土器が単独で出土しています。例が少なすぎて全体の傾向は把握できないのですが、これらの土器は積極的には受容されず、希少な土器のまま定着しなかったと思われます。

図18 中部高地からの搬入土器
(長岡市 岩野原遺跡/馬高縄文館)

胎土・色調・焼成等において,他の土器とは異なることから別の地域からの搬入品ではないかと推定される土器である。口緑内側に玉だき三叉文が陰刻され,動物意匠を想定させるような4単位の波状口縁をもつ深鉢。口縁部には袋状及びS字状を呈する橋状把手が2単位ずつ対峙してつけられ,それらの間は連弧状の隆起線で結ばれている。頸部は無文帯になり,円筒形の胴部は文様で上・下に2分される。胴部上半には橋状突起を想起させる4単位の小突起がつけられ,そこから隆起線あるいは半隆起線を用いた流水文状の曲線文及び渦巻文か三角形陰刻文を伴いながら垂下している。胴部下半は縦引きの半隆起線で満たされている。色調は赤褐色を呈し,胎土は砂質で焼成良好である。

「岩野原遺跡」[7] 142ページ
図19 三原田式に類似した土器
(津南町 堂平遺跡/津南町 農と縄文の体験実習館「なじょもん」)

北関東系の三原田式に類似している。口縁部の片側に1単位の山形突起と両側にやや小さな山形突起を持つ。山形突起の下部には三角形の突起とこれを橋状把手が連結する。口縁部には横位の半隆起線文に交互刺突文や有節沈線が加えられる。その下部に渦巻状突起を戴く8単位の橋状把手がめぐる。胴部はほとんど残っていないが、残存部分では縄文RLが施されるのみである。

「津南町文化財調査報告59:堂平遺跡」[2] 141ページ

ただし、火焔型土器の眼鏡状突起や王冠型土器の大きな波状口縁など、勝坂式土器や阿玉台式の表現要素をパーツとして取り入れるということはあったのかも知れません。筆者自身も以前に勝坂式的な要素を取り入れたと推測される笹山遺跡の火焔型土器についてnoteに執筆したことがあります。

最後に、長岡市の新潟県立歴史博物館で目撃した謎の土器を紹介します。

図20 加曽利E式土器様式?の土器
(出土地不詳/新潟県立歴史博物館)

加曽利E式土器様式(北関東)と表示されていますが、あまり加曽利E式のような雰囲気はありません。強いて言えば平縁タイプの火焔型という感じです。堂平遺跡や道尻手遺跡などでは正真正銘の加曽利EⅢ~EⅣ式土器が出土しますが、こちらは出土地も不詳で、そもそも新潟で出土したのか関東で見つかったのかも分かりません。「土器様式」という言葉に何か特殊な意味があるのかとも考えたのですが、謎の土器でした。

まとめ

  • 火焔型土器の前後の時期において、新潟で主体となる土器型式は大木式です。この時点の新潟は大木式土器圏に含まれていたと考えてよいと思います。

  • 新潟の大木式土器は、特に大木8b式期以降に、矢羽根状沈線文の地文や隆帯による腕骨文など、新潟固有の地域性が強まります。

  • 火焔型土器は、客体的に含まれる焼町類型や天神山式・五丁歩式などの曲隆線文と、大木式の中空把手が組み合わさって生じた、地域的な類型と位置づけることができます。

背伸びしすぎたテーマを設定したため、たいへんな長文となってしまいました。最後までお付き合い頂き、どうもありがとうございました。

参考文献

[1] 津南町教育委員会「津南町文化財調査報告47:道尻手遺跡」津南町教育委員会 (2005)
[2] 津南町教育委員会「津南町文化財調査報告59:堂平遺跡」津南町教育委員会 (2011)
[3] 長野県立歴史館「令和3年度秋季企画展図録 全盛期の縄文土器―圧倒する褶曲文―」長野県立歴史館 (2021)
[4] 水沢教子 「大木8b式の変容(上)」、長野県埋蔵文化財センター研究論集1:長野県の考古学、p84-123 (1996)
[5] 「津南学叢書44 史跡沖ノ原遺跡 OKINOHARA ENVIRON」津南町教育委員会・苗場山麓ジオパーク振興協議会 (2023)
[6] 長野県立歴史館「進化する縄文土器 ~流れるもようと区画もよう~ 平成29年度秋季企画展 縄文土器展2」信毎書籍出版センター (2017)
[7] 長岡市教育委員会「岩野原遺跡」長岡市教育委員会 (1981)

津南町歴史民俗資料館
〒949-8311 新潟県中魚沼郡津南町大字中深見乙827番地

津南町 農と縄文の体験実習館「なじょもん」
〒949-8201 新潟県中魚沼郡津南町大字下船渡乙835番地

十日町市博物館
〒948-0072 新潟県十日町市西本町一丁目448番地9

馬高縄文館
〒940-2035 新潟県長岡市関原町1丁目3060-1

新潟県立歴史博物館
〒940-2035 新潟県長岡市関原町1-2247-2

#縄文 #土器 #火焔型土器 #大木式土器 #新潟

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?