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新潟の神像土器

笹山遺跡から来た土器

昨年5月に念願の新潟に火焔型土器を見に行きました。今回はその時に見られなかった土器のお話をしたいと思います。

よく行く図書館で最近借りた展示会図録に興味深い土器が載っていました。群馬県立歴史博物館で平成10年に開かれた「縄文文化の十字路・群馬-土器文様の交流」 [1]という企画展で、主に前期から中期の群馬の土器を取り上げ、なかなか充実した構成です。おそらく展示の目玉として新潟の十日町市博物館から笹山遺跡の火焔型土器を借りてきたようで、そのうちの一つが目にとまりました。

笹山遺跡出土土器 引用:文献[2] 81ページ
(画像はここにもあります:NPO笹山縄文の里

十日町市博物館では見た記憶がなく、手元の写真にも見つかりませんでしたが、博物館で買った図録 [3]には載っていました。器高45cmをはかる平縁の深鉢で、やや口の開いたバケツ形の器形です。頸部は地文が無文で隆帯の弧線文があり、胴部は曲隆帯文を施します。口縁部には鋸歯状突起を有し、おおむね火炎土器様式A群の火焔型に相当しそうです。

突起の正体

口縁部の突起 引用:文献[3] 31ページ

注目したのは鶏頭冠突起の代わりに取り付けられた4単位の奇妙な形の突起です。上端は両側から手を合わせたような山形で、それらを下から支えるようにカーブを描いた部分に刺突文が施されています。

御坂中丸遺跡の土偶(レプリカ)

この形と刺突文を見て、ふと山梨県上黒駒の御坂中丸遺跡の土偶の後ろ姿に似ていると思いました。上の山形の部分が首から肩にかけて盛り上がったうなじ文 [4]に当たり、下の逆三角が肩から背中に対応するように見えます。

つまりこの土器は山梨県鋳物師屋遺跡の土器など井戸尻系の土器によく見られる土偶付きの土器 [5]ではないかと考えました。そう思って調べてみると、この土器を取り上げた論文 [2]が見つかりました。吉本洋子氏と渡辺誠氏は、日本全国の人面や土偶装飾が付いた縄文土器を集成し、分類を試みています。この土器はその追補の中で取り上げられ、DⅢA類すなわち口縁部より上に突出した、顔が外向きの土偶装飾付土器に分類されています。

笹山遺跡出土 土製品 三角形土版
引用:ウィキメディア・コモンズ 作者 Saigen Jiro

さらに、笹山遺跡をはじめ新潟の遺跡からは人体を単純化したとされる三角形土版が出土しています。上の写真の中段左端には「うなじ文」+肩・背中というこの土器の突起と似た構成の土版が見られ、刺突文の使用も共通します。三角形土版と土偶装飾の類似性は文献 [5]にも指摘されています。したがってこの土器は火炎土器様式と三角形土版の組合せから生まれたと推測されます。

一方で土偶や土版は女性の体を表す場合が多く、中段右から2番目の土版もそうした特徴を備えています。この土器の突起には乳房にも肩甲骨にも見える2つの小さな出っ張りがあり、これが文献 [2]で土偶を外向きとした理由ではないかと思います。ただしどちらが正解かということではなく、縄文人の意匠の多義性を示すものだと言えます。

土器を装飾する土偶は1体かせいぜい男女一対の2体までというのが相場ですが、この土器には破格の4体が取り付けられています。井戸尻系の土偶装飾を火炎様式に取り入れる際に、火焔型や王冠型に見られるような4単位構成への強い地域的な規範が働いたように思われ、興味深い点です。

神像の顔と足

ところでこの土器の突起では「うなじ文」と肩・背中の中間が貫通孔となっています。これは何か。反対側の突起の内側を見ると孔は隆線で円形に縁取りされています。ここでは内側斜め上を向いた単眼丸目の神像的な顔を表していると解釈してみます。位置関係はおかしいですが、肩から腕が内側に回されて顔の縁を手でちょこんと掴んでいるのが何だか可愛らしいです。以降はこの土器を「神像火炎土器(仮称)」と呼びたいと思います。そのほうが「土偶付き」よりかっこいいからです。

藤内遺跡の神像筒型土器 引用:文献[6] 表紙

神像と言えば何と言っても長野県藤内遺跡の神像筒形土器 [6]が有名です。井戸尻系土器の最高峰と言える傑作です。しかしもっとシンプルな表現の神像土器は長野県長峰遺跡、埼玉県北塚屋遺跡、同県下加遺跡などからも出土しています。北塚屋遺跡の土器は、埼玉県立歴史と民族の博物館で開かれた特別展「縄文コードをひもとく-埼玉の縄文土器とその世界」でもクローズアップされていました。いずれの土器でも神像は器に抱きつくような態勢で内側を向き背中を見せています。

埼玉県 下加遺跡の神像土器

井戸尻系の人面付き土器には、丸顔つり目で爬虫類風だがかろうじて人間に見える顔(例:山梨県津金御所前遺跡、長野県小尾口海戸遺跡)がしばしば表れます。しかし神像土器の顔はそれらとは違い、鼻も口もなく眼だけが強調されて動物にも見えない人間離れした顔です。神像火炎土器(仮称)の顔はそうした表現の一つであると考えたのです。

また、神像火炎土器(仮称)の突起の下端には、外側に張り出した板状の部分があります。先端には刻みが入って5つに分かれ、左から右へ順に小さくなっていく、つまりは足先を模しているように見えます。

足形の装飾を持つ土器は主に北海道から東北にかけて分布し、中部高地の井戸尻系にはほとんど見られないとのことです [7]。福島県横山B遺跡では人面と足形のある大木式の深鉢が出土しました [8]。火焔型土器が分布する福島県石生前遺跡や新潟県キンカ杉遺跡でも足形の土器装飾が見つかっています。神像火炎土器(仮称)の足先の表現もこうした地域との交流から生まれたものかも知れません。

福島県 横山B遺跡の人面・足形付き土器

弧線文の連なり

土器の土偶装飾の腕は、肩から一旦下がり上に向かって曲線を描くことが多いです。藤内遺跡の神像筒形土器の腕は立体的なレリーフ状で先端が蛸の足のように巻き上がっています。もっと簡単な表現の土器では腕は一本の粘土紐による隆帯で表されます。

腕が肩と口縁部から垂れ下がる弧線文のようになることもあり、鋳物師屋遺跡の土器では手先を起点としてさらに別の弧線文に連なっているように見えます。長峰遺跡の神像土器では腕は「J」の字・「し」の字を描き下方に位置していますが、展開写真では口縁自体が連なった弧で切り取られたような波状口縁となっています。

頸部の弧線文 引用:文献[3] 31ページ

神像火炎土器(仮称)の場合、土偶装飾の腕は前述のように顔の縁に回されていますが、肩の付近から発した隆帯の弧線文が口縁に向かってカーブを描きます。これも腕の表現に由来すると推測され、実際に両腕を広げた姿のようにも見えます。また、胴部の曲隆帯文は頸部の無文部分との間が隆帯の弧線文で区画されていて、上下の弧線文はほぼ互いに向かい合うような配置となっています。

道訓前類型 諸例 引用:文献[9] 39ページ

長野から群馬にかけて、鶏頭冠突起と似た形の4単位の突起を持つ、火焔型土器の影響を受けた土器が出土します。長野県大川遺跡、群馬県道訓前遺跡、同県五代伊勢宮遺跡などです。新潟の馬高系とも栃倉系とも異なる個性的な顔つきの土器で、福田貫之氏はこれらを道訓前類型と名づけました。その特徴の一つとして、「頸部文様帯には横位弧線や横位対向弧線を設ける。隆線による意匠を主とするが、沈線による弧線意匠も見られる。」ということが述べられています [9]。

井戸尻系の土偶装飾の腕から変形した弧線文が、神像火炎土器(仮称)を介して道訓前類型に痕跡を残したのではないか?などと想像を膨らませると、何だかわくわくします。

縄文文化の十字路・新潟

以上のように、神像火炎土器(仮称)は中部高地の井戸尻系や東北の大木系の意匠を取り込んでおり、異系統文様の同一個体共存のひとつの例と言えそうです。この土器を含め火炎様式の土器が、さまざまな系統の土器の入り混じる環境の中から形作られたことが分かります。

新潟を代表する火焔型・王冠型の土器は同時期の土器のうち1割程度にとどまります。新潟で、特に津南町の「なじょもん」の収蔵庫で感じたことですが、何の型式とも判然としないけれど一種の熱気を感じる折衷的な土器がいくつもあり、これらが土器力のポテンシャルを押し上げているように思いました。最初に挙げた展示会の題名に倣って言えば、「縄文文化の十字路・新潟」です。

実はこれとよく似た趣旨の展示会は、東北から関東甲信越の各県で開かれています。地域間の交流が盛んに行われた縄文中期中葉から後葉の時代に「十字路」がない場所などなかったと言えるのかも知れません。田村大器氏はこのあたりの時代のダイナミックな土器様相を「グレートシャッフル」という言葉で表現しています [10]。一つの型式に収まらない面白い土器が次々に現れる時代で、私はこの時期の土器が大好きです。

それにしても神像火炎土器(仮称)の実物をぜひ一度見てみたいものです。4つの土偶は全く同じなのか、異なる文様の組合せなのか。近辺の遺跡からこれと似た土器(土偶装飾や弧線文を持つ火焔型)が出土していないか。またどのような出土状況で、一緒に出土したのはどんな時期の土器か。等々まだまだ知りたいことがたくさんあります。なにぶん素人なもので文献の入手もままならない状況ですが、何かご存じの方がいらっしゃったら、是非ともご教示頂ければ幸いです。

参考文献

[1] 群馬県立歴史博物館/編「縄文文化の十字路・群馬  土器文様の交流」(1998).
[2] 吉本洋子・渡辺誠「人面・土偶装飾付土器の基礎的研究」 日本考古学 1.1 (1994)、同追補 (1999)、同追補2(2005).
[3] 十日町市博物館友の会「十日町市の縄文土器」(2007).
[4] 中村耕作「堂ヶ谷戸遺跡出土の土偶装飾・抽象文付土器」(共和開発 編「堂ヶ谷戸遺跡XII」)(2020) 132-142.
[5] 和田晋治「縄文中期勝坂式期の土偶装飾付土器」富士見市立資料館調査研究報告 第1号 (2021) 6-22.
[6] 井戸尻考古館 編「井戸尻の縄文土器① 藤内遺跡32号住居出土土器」(2016).
[7] 渡辺誠「人面・足形装飾付の香炉形土器」名古屋大学文学部研究論集 史学 44 (1998) 15-29.
[8] 公益財団法人 いわき市教育文化事業団「いわきの縄文時代Ⅰ-総括編-」(2016) 5
[9] 山口逸弘「赤城山南麓に集う5000年前の個性派たち」、岩宿博物館/編「第71回企画展 華開く!ぐんまの縄文文化 展示図録」(2020) 36-43.
[10] 田村大器「The Great Shuffle - 縄文時代中期中葉における土器型式の「大撹拌」と南西関東の様相について」考古論叢神奈河 第11集 (2003) 39-54.

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