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「すべての壁は扉である」に思う僕の考え方


自分ひとりでも越えることができる壁もあれば、どうしても越えることができそうにないバカでかい壁を目の前にしてふさぎ込んんでしまうこともあります。

越えられない壁が立ちはだかったとき、たとえばあなたの行動には何があるでしょうか。

挫折、諦め、失望、壁ドン…

あなただけではなく、ほとんどの人が頭に浮かぶのは

「この壁は越えられないそうにない」

とギブアップしてしまうのではないでしょうか。

そこで、絶対に越えられそうにない、行く手を阻む大きな「壁」に悩まされたとき、思い出す言葉がある。

すべての壁は扉である

目の前にあるのは「壁」ではなく「扉」

一度は聞いたことがあるでしょうか。

ありませんか?

アメリカの思想家ラルフ・ウォルド・エマーソンの名言です。

説明しておくと、目の前に越えることが不可能と思えていた「壁」は、じつは開くことのできる「扉」だった。
自分自身で越える事のできない「壁」と決めつけて諦めれば、それはやはり単に「壁」。
だが、諦めずに壁に向かっていけば、そこにはあるのは必ず開くことができる「扉」だ。
どんなに頑丈そうな壁でも、全力で押しつづければ、いずれその壁は扉となって突破口が開ける。

という比喩表現です。

「壁」と考えると動かしようがないが、重い「扉」と考えて必死に押し続ければ、少しずつ少しずつでも開けることができるのかもしれない。

ドアのキーやノブに当たるものを探せば、容易に開けられるのかもしれません。

押してもダメなら引いてみればいいのかもしれません。「戸」だとしたら横にズラせば開くのかもしれません。
 
あきらめずに、そして工夫をこなしながら努力を続ければ、壁だと思っていたのが扉のように道を開くことができるというわけです。

この考え方はつまり、目の前にある困難も試行錯誤を繰り返し時間をかければ必ず解決策は見つかるものだから、道が開けるまであきらめてはいけないことを表しています。

しかし、このやり方を貫き通すためには根気と苦痛に耐えられる精神力がなければ実現しない。

それにそもそも根気がなくて精神的にも弱いから立ちはだかる壁にふさぎ込んでしまうのだ。

辛いばかりの精神論に持ち込むのではなく、もっと他のやり方はないものか。

それに、たとえ壁ではなく扉だったとしても、自分で開いてくぐろうとしているだろうか?

だれもが、諦めてはいけない!必ず道は開ける!と奮い立ち、気持ちを前向きにして希望を失わないようにしています。

ところが、どうでしょうか。

多くの人は、目の前に立ちはだかる壁が、いつかは扉になるだろうと期待し、その壁をドンドン叩いて、わめき散らかしているようにも見えます。

そう、扉だと思うようにしているけど、じつは目の前にあるのは壁のままなのです。

忙しいのだからどうにもならない・・・

とはちがって、忙しいのどうにかならないかなぁ~・・・です。

目の前の壁を扉だと思いきやその扉を自分で開けようとしない。

開けない扉は壁と同じ。扉だと思っていても開かない扉。

「なんで?どうして開かないの!だれか~!だれかいませんか~」です。

そう、扉といっても開けるのは容易ではありません。


扉であるすべては壁


では、こういった考え方はどうだろう。

たとえば、アレもこれもやらなくてはいけない時に限って他人に頼まれごとをされたりと「忙しい」と思えば焦りで気持ちに余裕がなくなりモヤモヤしてしまうもの。

けど、他人に頼まれごとをされるということは「自分は人気者だ」と思えばうれしくなりますよね。

他には、「誰も相手にしてくれない」と思えば淋しくて辛かったりするが、相手にされない分「自分はいつでも自由にやれる」と思えば気が楽になります。

つまり、事実という壁は自分の思うがままに曲解して扉にすればいいってことです。

「すべての壁は扉である」

この言葉は多くの人にとって、諦めないための力となり勇気をふり絞る原動力となっている事でしょう。

だが、見方をかえれば「扉であるすべては壁」

すなわち、目の前に現れる者のすべてはじつは「扉」。

そこにあるのは閉まっている扉であるはずなのに、誰もがそれを壁だと勘違いをしている。

と言い換えることができます。

壁にぶつ当たったとき、その解決策が分らないのではなく、問題が分っていないだけなのです。

今まで経験したことのない難問だから、すぐに解けるはずがない。

しかし、問題そのものを変えてしまえば、いかなる問題も解くことができます。


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