見出し画像

大谷翔平、野球のすべて

 人がどれほど遠くにボールを飛ばしたのか確認しに行く動作を、私は1日に何回行っているのだろうか。大谷翔平の一挙手一投足の話だ。大谷翔平の一挙手一投足を追うことは出社することよりもよほど能動的な行為のはずなのに、大抵後者の方が自然な行為として受け取られるものだ。大谷翔平、野球のすべて。Yahoo!の速報アプリが突然MLBをきちんと扱うようになったのは彼のおかげ。以前はせいぜい1日1カードしか取り扱ってもらえなかったのに、今や全てのカードの速報に、アプリから簡単にアクセスできるようになった。

「朝霞さんってトイレ多いよね」
 2個上の先輩の矢田部さんは、人のことをよく見ている。歳の近い派遣社員のことならなおさらだ。彼女は29歳で、結婚をしているがまだ子供をもうけてはいない。電話は素早くとる、アシスタントとして付いている営業さんの様子を確実に伺って仕事を進める。理想的なOLである。だからこそ、私たちのような25歳くらいで入社してくる派遣社員へ向ける目は厳しい。私はトイレに足繁く通うことを誤魔化すためにコーヒーを飲んでいる。これは誰に言及されたこともないが、コーヒーを飲みまくっているから利尿作用が働きすぎているというテイで、私はトイレに行きスマートフォンを開き、「野球速報」を見ている。これはトイレでないといけない。ホームランを打っていた場合、動画を開かなければならない。時にはAbemaを見る。デスクで大谷翔平を見ることはいけないと思っている。同僚にも、大谷翔平にも悪いし、後ろめたさを伴って見る誰かのホームランは、中学生の頃部活をサボって行ったディズニーシーでパレードを観た、あの時の気持ちを想起させるので嫌だった。

「大谷は泣けるんよ」
 渋谷の居酒屋ではみな、目の前の話題一つ一つに花を咲かせることに夢中になっているように見える。ここが渋谷でなければ、もっと椅子の奥の方に腰掛けているのではないか。私はみんなの分までベンチシートに深く腰掛けて、レモンサワーを一口だけ飲んで、味が足りなく感じてそれをかき混ぜた。日付変更線があるおかげで、日本時間のプライムタイムにメジャーリーグの試合はまず実施されない。だから、オフィスで会う世間話の最大値が天気の話程度に終始する同僚たちには大谷翔平を追う姿を見られているのに(みな、頻尿な女だとしか思っていないのだが)、夜に会う親しい友達は一度もその姿を見たことがないという逆転現象が発生する。
「まあでもだからこそ友達でいられるんだけどね」
「どういうこと?」
「もしこの世界に時差がなくってメジャーリーグが日本時間の午後8時に試合を開催していたら、私と飲んでる最中にアサが『ちょっとトイレ』とか言って急に消えたり、目の前で大谷翔平のホームラン観たりするんでしょう?」
「まあ、それはそうだね」
「日本時間の午後8時にサシで会うのってさ、なんでもいいから時間潰したいときか余程大事な話があるかのどちらかでしょう?どっちも大谷優先されたら嫌なわけ。大事な話は誰かに話すからこそ大事な話たるものだし、どうでもいい話は聞いてほしいから」
「じゃあ時差のおかげだねえ」
「時差って誰が決めたんだろうね」
「イギリスの、サンフォード・フレミング卿って人らしいですよ」
「調べんの早。それ、なんの人?」
「土木技師だって」
「へえ……」

 貴子はウーロン茶を飲み干して、グラスをゆっくり置いて、来月婚約する話を切り出し始めた。大事な話をしにきたその人は私の目をまっすぐ見つめていた。まだ両親への挨拶が済んでないんだけどね。

 大谷翔平のために勤労時間の1/3を費やしている人に、どうして婚約の前からその話を打ち明けてくれるの、と聞く勇気はなかった。マジメ、優等生、そういう言葉をよくかけられ育ってきて、代名詞は口の堅い人だとか人畜無害というものに変わっていった。大谷くんに出会ってからアサは面白くなくなっちゃった、と中高の友達であるマミに成人式で言われたことを時々思い出すけれど、目の前で結婚に対する一抹の不安を打ち明けてくれる貴子のことを見つめることが今は大切。でも彼女の目を見ることはできなくて、少し遠くの、手書きに見せかけたフォントで印刷された「鶏皮ポン酢」を眺めた。貴子はえらい、きっと大丈夫、と言ったらお腹をさすりながら「子供がね、いるの」と教えてくれた。空になった彼女のグラスに空の灰皿が屈折して映っていた。


 大谷翔平の所属するロサンゼルス・エンゼルスは14連敗を喫していた。12連敗の段階でマドン監督が解任されて、メジャーリーグ最高の打者の1人であるマイク・トラウトは極度の不振に陥った挙句、復調の兆しを見せるホームランを打った次の打席で肉離れを起こし離脱した。14連敗を止めるため、2番投手・大谷翔平が試合に出場することになった。リアル二刀流と呼ばれるシチュエーションである。私は大谷翔平の予告先発が分かった瞬間に有給休暇を取得した。毎回大谷翔平の先発登板日に有給休暇を取得しているわけではない(職を失いたくはないので)。ただなんだか今日はトイレではなくてきちんと見届けなければならない気がして、代々木にあるスポーツバーに行って、昼からビールを頼もうと思ったけれどウーロン茶を注文し、赤いブレスレットを見やった。

 2021年は打者・大谷翔平が46本塁打を放ちメジャーリーグを席捲した。しかし2022年は投手・大谷翔平の年になると思っている。トミー・ジョン手術明けでどこか抑え気味だった昨年の投球から一転、今季はピンチになると100マイル越えのストレートを連発する。例年よりサイドスロー気味のリリースになった投球フォームのおかげでスライダーがよくキレる。スプリットも相変わらず空振りを取れるボールで何より制球がいい。今年は二桁勝てると思うんです、と隣にいたおじさんに声をかけたがおじさんは虚な目で「おう……」と答えるだけだった。

「大谷翔平は泣けるんよ」
 5回、犠牲フライにより大谷がレッドソックスに先制点を献上した。しかしその後160キロを超えるストレートを連発しピンチを広げない。101マイルって163キロなんだ。私が子供の頃は、抑えの1イニングしか投げないピッチャーが160キロ超えのストレートを投げてるだけで騒いでいたのに、大谷翔平は先発投手で何球もそういうボールを投げて、そしてホームランを打つのだ。彼が見せる景色に何度か泣かされて、その涙が重なるたびに私がトイレに行く回数が増えて今に至る。元カレは高校球児だったけどもう彼のポジションすら忘れてしまった。今は総合商社で海外勤務らしいけど、大谷翔平もロサンゼルスで野球をやっている。

 つまみのササミに手を伸ばしていてひととき気を緩めていたら大谷翔平が打席に入った。3球目を振り抜く。お得意のセンター少し左へ切れていく大飛球はスタンドに飛び込んだ。逆転ツーラン、自分で失った点を取り戻すどころかそれを超えてしまった。握り拳は何キロの握力で握られ、そこにはどんな思いがあるのだろう。自らの二刀流をサポートしてくれた前監督のこと、MVP候補に挙げられながら不調に苦しむ自身への思い、そんなことを、有給休暇をとって代々木のスポーツバーで見ている人間が計り知れるはずがないのだけれども、それを計り知ろうとすることが、私がかろうじてできる行動なのだと思う。測り知ろうとする。覚悟ができてない中で新しい命を身籠ることを、逆転ツーランを打った後にマウンドへ向かうことを。私はポケットティッシュを取り出して鼻をかんでからおじさんをみて、もう一度「大谷翔平は泣けるんよ」と言った。おじさんも泣いていた。

 大谷翔平は7回1失点で試合をまとめて、エンゼルスは6回裏にベラスケスのスリーランホームランが飛び出して試合を決めた。エンゼルスは連敗をようやく脱して、私は晴れのち曇りの富ヶ谷を歩いている。道ゆく人が歩きながら、だらんと垂らしている掌を眺める。実はここに個性が現れるのだ。握って歩く人もいればパーの人もいるし、親指だけ曲げている人もいる。それを見るのがけっこう好き。

 「泣けるなあ」と何度か口にしながら歩いた。今からシーズンオフが怖いし15年くらい経つと訪れるであろう彼の引退後を私はどう過ごしているのだろうと、腰を曲げて歩く老婆を見て思った。貴子の子供はそのころ思春期を迎えているのだろう。「大谷翔平は泣けるんよ」。その時、目の前の老婆の左手がピースサインに変わった。これは最高!ピースサインをしている人を見た時イコール四葉のクローバーを見つけた時と、私の人生では規定しているのである。私は今日、野球の全てを見た。登板翌日に先発出場するであろう大谷翔平のことを考えながら、今夜の食材を探すため、マルエツプチの自動ドアに自身の存在を感知させた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?