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これが秋だね一人でもリングだエッセイ

 電気工事士第2種の下期筆記試験を受けた。上期も受験こそしたものの試験勉強の舵取りを二度ほど誤ったうえ、その量すら大して積み重ねることができず見事に玉砕をした。そのうえでの下期なのに、仕事が繁忙になったりこうして文章を書いていたり、試験一週間前の土曜日というかき入れ時に、マッチングアプリの女の子と下北沢でクラフトビールを1ℓ飲み自分の中では潰れかけるレベルに酔っぱらい、日曜日は日曜日で昼に起床し、いらぬ孤独を感じ何にも身が入らぬ一日を過ごしほぼ勉強をしていないという、どうしようもない人間を体現したような存在と化してしまった。いつからこんなに、試験勉強というものへの段取りが悪くなったのだろう。特に暗記物は身が入らない。今日覚えたものを明日明後日一週間後に覚えていられる自信がないから、数日でどうにかしようとしてしまう。普通に過ちである。

 フレックス休暇という名の促進された有給休暇を金曜日に充てることで連休を確保し、どうにか試験勉強に取り組んだ。リフレインするのは、高校時代通った塾で、私をあっさり現役合格に導いた塾長の言葉だ。「受験は受かるか受からないかではありません。間に合うか、間に合わないかです」と。私の通っていた塾は映像授業の塾だった。与えられた映像授業をすべて消化し、そのテキストをすべてこなし、過去問を解く。必要な勉強がすべて「間に合えば」理論上合格するだけのノウハウがある、というとてつもない自信だ(河合塾マナビスのことだが)。結果私は間に合って有名私大に合格した。しかしあれは、導かれたよなあ、という気持ちが未だに強い。あの人は「先生」ではなかったし人生の教えを説いてくれたわけではないけれども、明らかにその後の自分の道を作ってくれたのは彼である。出会いや道しるべの礎を作る、塾長の仕事っていいよなぁと思う。

 そんな自慢話も過去である。祇園精舎の鐘がなり、試験2日前にスタバに行き1時間しか滞在できないうえ実はスタバにはケツが痛くなるような硬さの椅子もあり案の定それにあたり一時間と座っていられず金曜日の勉強量はそこまで多くない、しかもなぜかロフトに行き手帳を買い、ロイヤルホストでハンバーグを食べこんなにお堅い感じでしたっけ?と戸惑うなどした。結局その帰宅後から土曜日までの頑張りが功を奏し、どうにか「間に合った」。上期の試験は半分以上を捨てていたことを、今回それなりの準備が整ったうえで受験をしてみて知った。神南のブルーボトルコーヒーの前の公園で自己採点をし通過を確信、祝いサードウェーブコーヒーを飲む。神南のブルーボトルは上の階が案外空いているしブルーボトルにしては珍しくスタバ並みに作業人もいて良い。

 3年ほど前から秋~冬になるとチャンピオンのモコモコしたアウター(服装に対する語彙力が絶望的にない)を着ている。この日もそれを羽織っていたのでひょっとすると冬なのかもしれないと思ったがまだ寒くなかった。この服はモコモコなわりにあまり寒気を防いでくれなく、実は秋に切るのがベターなのだ。でも確かに季節は移ろったな、と思った。この○○エッセイシリーズも第一稿は「初夏エッセイ」だった。夏終わりどころか秋が終わろうとしている。秋だけは匂いを持っていると思う。根拠の特にない主張である。

 自己採点の帰りにウキウキになって、金がないのにアウターを買おうとした。しかしさすがに、セールの存在を思い出してやめた。年末に値札を見て後悔はしたくない。けれど何かしらご褒美を与えてもいいよな、と思った。昔は歯医者のあとでさえ何か買ってもらえていたのに、日々の仕事の頑張りに対するご褒美をあげる習慣がない。せめて試験のあとぐらい、と思ってユナイテッドアローズをうろつき、私が買ったのはリングだった。

 ペアリングを作るほどの信頼関係を築いたことのない私は、リングは誰かとの関係性を示すものなのだと心のどこかで思っていた。お揃いのものを指に嵌める。人間は円環を身に通すことである種「誰かの中の自分」を確立する。ペアリング、送られたネックレス、社員証を首から下げる時、チームの帽子、ひいては服を着ることでようやく、社会に飛び出すことができる。

 ただこのリングは自分のためだけのものだ。今までの流れをどこか変えたい。今まで一度もやらなかったことをやることで人生に新しい風を吹き込ませたい。そういった願いを込めて買った。そして指に嵌めてみる。誰かとではなく、一人でもリングは指に嵌まることを知った。いかついのは嫌だからごついのより細いのがいいと思ったけど実際嵌めてみると、いかついと思っていたそれは以外と指に馴染むし、さりげない。そう、リングはもっと主張が激しいものなのではないかとばかり思っていたけれど違うのだ。これならこれからの生活を共にできるかもしれないという期待感とともに右人差し指から左人差し指に移し替えた。

 帰り道、家の近くで夜空を見上げた。星は見えなかったけど、柿が大量になっていて驚いた。というか柿の木、ここにあったのかと。去年何度も通ったはずなのに全く気付かなかった。自分はもうひょっとすると何もなしえないのではないかという一抹の不安が取れて、少しばかり肩の荷が下りて首の周りが柔らかくなって、見上げることができたのかもしれない。

 季節は移ろう。それは当たり前のことで、どうか好意的に受け入れていきたい。右親指の付け根の虫刺されの跡もいつのまにやら消えていた。あったものがなくなり、今までなかったところに何かが収まる。人は変わり続ける。だからこそ100年生き永らえる馬力がある。それを彩るものはきっと何個あっても足りないのである。

※私的プレイリストをつくりました。アーカイブ的な役割。


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