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おわりに――社会をどうたてなおしていくか

■「地域共生社会」という要請
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。ここまで、さまざまな社会問題をとりあげ、それが人びとにどんな〈生きづらさ〉をもたらしているか、どういうしくみでそうなっているか、そしてそれを解消するべく人びとがどんな活動をしているか、といったことを見てきました。
 それらに共通していたのは、公助――政府による非人称の支え――の不足ゆえに各自が自助――自分(とその家族)でなんとかすること――に努めねばならなくなり、その過重さゆえに諸種の〈生きづらさ〉が生じていた点、そしてそれをカバーするために共助――顔の見える助け合い――が求められていた点でした。
 NPO・市民活動とは、この共助というものに現代日本が与えた制度的表現ということになります。すでにお話した通り、90年代末より広がっていったそれらは、ゼロ年代末には民主党政権のもとで「新しい公共」、2010年代後半には自公政権のもとで「地域共生社会」として定式化され、推奨されました。
 ところで、NPO・市民活動というのは、(営利企業のように)提供するサービスの対価のみによって必要なコストをまかなっているわけではありません。寄付やボランティアなど、市民のさまざまな贈与によって支えられているのがその特徴です。しかしそれは、持続可能性に困難を抱えているということでもあります。
 この難問をクリアするために構想されたのが、先に述べた「新しい公共」や「地域共生社会」なのでした。前者は、NPO・市民活動がビジネスの手法をとりいれ、社会的企業(ソーシャルビジネス)となることで自立していく道を模索するとりくみでした。しかし商業化は、贈与経済との間に齟齬をきたします。
 贈与経済とは、NPO・市民活動――別名「ボランタリー・セクター」――が元来基盤をおいていたもので、そちらのほうに軸足をおいて持続可能性を確保していこうというのが「地域共生社会」の構想です。地域に存在する多様な主体がお互いに助け合いながら課題や困難に対処していく、というイメージです。
 
■共助の限界
 困っている人びと同士が、ときに「支援する側/される側」の垣根を越え、臨機応変に支え合い、助け合って生きていく――。そうした美しいイメージで描かれがちな共助ですが、それはあくまで表面で、一方に公助の不足(やそれをもたらしている政府の怠慢)が「地域」に丸投げされているという側面もあります。
 そもそもが、広範囲の人びとに広がった〈生きづらさ〉――マクロに発達した社会問題――を、基本的にミクロ・レヴェルの実践である自助や共助でカバーできるはずがありません。7人に1人といわれる「こどもの貧困」に、月1回開催のこども食堂の実践で対処できるかといえば、答えは明らかでしょう。
 加えて、「地域」とは、望めばそこから何でも欲しいものがとりだせる「ドラえもんの四次元ポケット」ではありません。それが大都市圏の「地域」かそれとも中山間地の「地域」かによって、そこにある資源の量や質は変わってくるでしょう。それを一律に「地域内で助け合いを完結させよ」は乱暴に過ぎます。
 近年は、教育や福祉、医療など、対人支援に関わる分野でこの「地域」との連携や協働が語られ、政策的にもそれが推進されていますが、本来――というのも憲法25条で「健康で文化的な最低限度の生活」を人びとに保障するよう政府は命じられていますので――それらは公助、つまりは政府の役割だったはずです。
 その一部を「地域」の助け合いに担ってもらおうというのであれば、「地域」がそれをどこでも十分に行えるよう、さまざまなバックアップ――中間支援(インターミディアリー)と呼ばれる――が不可欠です。それらがあってはじめて、共助の担い手となる資源が「地域」に生まれ、育っていくことになるからです。
 このように、公助の不足――直接的にも間接的にも――のもと、それを補うための現場のあがきのようなものとして、現在の共助はあります。では、公助が機能しない限りそうしたミクロな実践に大した意味はないのでしょうか。NPO・市民活動など、所詮は自己満足のとりくみにすぎないということなのでしょうか。
 
■共助を公助に変換する
 この本で見てきたさまざまな事例からは、その答えは「NO!」ということになります。確かにNPO・市民活動の実践がそれぞれに行っていること、提供しているケアや支援は本当にささやかなもので、人びとのマクロ・レヴェルの困難を根本的に解消するようなものではありえません。せいぜいが対症療法でしょう。
 では、それらに対症療法以上の意味はないかというと、そんなことはありません。そこには、その社会問題を解消するのに何をすればよいか、そのためにはどんな資源(人・モノ・金など)が必要で、それをどう調達するかといった問いを、実際のとりくみを通じて明らかにしていくという意味合いがあります。
 要するに、社会問題の解決法を探るための社会実験という側面です。NPO・市民活動の強みは、行政や企業がなかなか手を出せないような、小規模かつマニアックな、人びとのニーズに対処できる点にあります。目の前にある現実の困難に実際に向き合い、試行錯誤しながら、解決法の最適解を探しているわけです。
 もしそこで問題の解法が見つかった場合、そのやりかたは行政や企業に媒介され――前者は「政策提言(アドボカシー)」、後者は「商品化」――、政策や商品へと成形され、広範に拡散されていくことになります。行政や企業がその規模の大きさゆえに担いづらい役割を、NPO・市民活動が担っているのです。
 とはいえ、そうした「より広範な文脈」への媒介が達成されているかというと、とてもそうとはいえない現状にあります。筆者の観察では、市民活動が低調といわれてきた東北や山形でも、3.11以降は「地域」内で多彩な主体が覚醒し、共助の活性化が生まれています。それ自体はとてもすばらしいことだと思います。
 ところがその一方で、支援の現場が求めてやまないはずの「公助の再建」は無視され続けてきました。それどころか、「公助の削減」を掲げる――新自由主義と呼ばれる立場です――政党や政治家が選挙のたびに議席を増やしてきました。ここにあるねじれの正常化こそが、市民社会の課題ということになるでしょう。
 
■これからを生きるみなさんへ
 そろそろ終わりが近づいてきました。最後に、まとめのようなものとして筆者からみなさん――とりわけ若い世代のみなさん――にお伝えしたいことがあります。おそらくみなさんはこれまで、さまざまなところで「日本は先進国で、問題の少ない社会」と伝えられ、そう信じてきた方も多いのではないでしょうか。
 そうした目からすると、この本が描くさまざまな日本社会の――そして山形の社会の――姿はにわかには信じがたいものだったかもしれません。講義で話していると、ときおり学生さんから「そんなことがあってたまるか」という怒りの声を受け取ることがあります。でも、ごめんなさい。これが私たちの現実です。
 こうした現実の否認は、若い世代だからそうしてしまうというものでもありません。思想史家の白井聡は『永続敗戦論 戦後日本の核心』(講談社+α文庫、2016年)にて、それを、約80年前の敗戦を否認して以来、戦後日本というものがずっと反復し続けてきた強迫的なふるまいと位置づけています。
 「自分たちが負けた」という事実を直視する勇気がなく、それを否認し、上辺だけを取り繕って「勝った」ふうを装ったり、判定基準をこっそり変更して「勝った」ことにしたりと、ごまかしの手法ばかりを洗練させてきた私たちの社会。3.11然り、コロナ禍然り、思い当たるふしはいたるところにあるでしょう。
 そうした欺瞞に満ちた社会を生き、それをとめることができなかった年長世代の一人として、そんな残念な社会を若い世代のみなさんに引き継がねばならないことに、本当に申し訳なさを感じています。「この社会をもっとまともに」と思って活動してはきたけれど、力不足でした。本当にごめんなさい。
 しかしそれでも、みなさんに手渡すことのできる方法や道具は、私たちなりにつくって積み上げてきたつもりです。みなさんがこれからどんな社会を望むのかはわかりません。でももし、自分たちの望みを実現したいと思ったなら、私たちからのこの贈り物を思い出し、使ってみてください。健闘を祈ります。(了)

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